A1051

安齊重男

| 1939 | 2020-08-13

ANZAÏ Shigeo

| 1939 | 2020-08-13

作家名
  • 安齊重男
  • ANZAÏ Shigeo (index name)
  • Anzaï Shigeo (display name)
  • 安齊重男 (Japanese display name)
  • あんざい しげお (transliterated hiragana)
  • 安斎重男
  • Anzai Shigeo (transliterated Roman)
生年月日/結成年月日
1939
生地/結成地
神奈川県厚木市
没年月日/解散年月日
2020-08-13
性別
男性
活動領域
  • 写真

作家解説

写真によって美術の現場を記録し続けた安齊重男は、「写真家」ではなく「アートドキュメンタリスト」や「現代美術の伴走者」を自称したことで知られる(註1)。1939(昭和14)年、神奈川県厚木市生まれ。1957年に神奈川県立平塚高等学校応用科学科を卒業後、日本石油中央技術研究所で働きながら独学で絵を描き、1964年の退社後には烏口を用いた幾何学的抽象絵画を公募展や画廊で発表するようになった。1960年代後半に当時住んでいた自由が丘のカメラ店でニコマートを入手。同時期、日本橋本町の田村画廊(1969年開廊)に出入りし、李禹煥や多摩美術大学(東京)出身の吉田克朗、本田眞吾らと交流を深めた。 当時、田村画廊に集っていた若手作家たちは、未加工の素材を用い、物同士や物と空間との関係性、状況などを提示するサイトスペシフィックな表現を展開しており、やがてもの派と総称されるようになる。安齊は、彼らの仮設性の強い試みの意義を認めながらも、展示終了後にすべてが解体され消えてしまう現実に危機感を抱いた。そして、李禹煥の勧めもあって、1969–1970年ごろから35 mmフィルムカメラで彼らの一過性の表現を撮影し始めた。安齊の「伴走者」としての立ち位置を決定づけたとされるもうひとつの出来事は、中原祐介がコミッショナーを務め、「人間と物質」をテーマに開催された1970年5月の第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)である。同展に安齊は、ダニエル・ビュラン、リチャード・セラ、クリストらのアシスタント兼記録カメラマンとして参加し、彼らと協働しながらその制作過程を含めて記録した。 一過性の表現、展示空間、制作・展示のプロセス、作家たちの姿などを被写体とした当時の安齊の写真は今日、1970年代美術の研究や展示に不可欠な資料となっている。その多くは、安齊が自ら現場に入り込んで、手弁当で撮影したものだった。これらの写真には、クローズアップやトリミングによって被写体を強調する意図がほとんど認められない。李はこうした「時として、焦点が曖昧」になる安齊の写真の特質を、「特定なものよりも、ものとものとの関係、ものと場との関係からくるはるかに広い世界に関心が向いているから」(註2)と説明し、もの派の志向との共通性を見出している。 1974年、「ルイジアナの日本展」(ルイジアナ美術館、デンマーク)のため関根伸夫と共に渡欧し、そのまま欧州各地を巡ったことを皮切りに、安齊は活動範囲を海外にも広げた。1978–1979年にはロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨークに滞在し、オルタナティブ・スペース「ザ・キッチン」で行われていたパフォーマンスの模様など現地の最新動向を活写した。この約1年間の経験は安齊に多大な影響を与え、帰国後は講演、執筆、展示などを通じて、同時代美術の動向を積極的に伝えるようになる。ヴェネチア・ビエンナーレ、ドクメンタなどの国際展、ヨーゼフ・ボイスなど来日作家らを次々と撮影した1980–1990年代になると、アメリカの美術雑誌『アートフォーラム』をはじめ国内外から撮影、フォトエッセイ、対談などの依頼が相次いだ。特筆すべきはそれらの写真や文章が、美術雑誌や写真雑誌といった専門誌にとどまらず、『流行通信』や『スタジオボイス』など多様な読者に開かれた媒体にも掲載された点である。また同時期、イサム・ノグチ、アンソニー・カロなど個別の作家や、当時流行だった野外彫刻とじっくり向き合った作品集を刊行するなど、活動の幅をさらに広げた。2000年には、大写しにした作家肖像100点による連作〈FREEZE〉を完成させている。 1970年代からしばしば展示形式で写真を発表していた安齊だが、1980年代以降、画廊での個展の増加に伴って、黒枠の焼き付け、余白の手書き文字、手切り印画紙の質感といった、彼のプリントのトレードマークとなる要素が整備されていく(初期のプリント、特に印刷用などには黒枠のない例も確認されている)。また、膨大な枚数のプリントを壁から床にまで並べた「Recording on Contemporary Arts 1970–1981」展(1982年、Gアートギャラリー、東京)の形式は、安齊の展示に対する基本姿勢を決定づけた。1994年、神奈川県立近代美術館での「写真と彫刻の対話: 安斎重男 眞板雅文」展を契機とし、大阪の国立国際美術館(2000年、2017年)および東京の国立新美術館(2007年)と、美術館における大規模個展も開催されるようになった。多摩美術大学では2004年から客員教授をつとめ、大学美術館における「by ANZAI レンズの中の表現者達」展、「by Anzaï: 現代美術と多摩美」展(2009年)など、教育活動と連動した展示を行った。海外でも、ブンケル・シュトゥーキ現代美術ギャラリー(2002年、ポーランド)、上海美術館(現・中華芸術宮、2009年)、北京中央美術学院美術館(2010年)、などで個展が開かれた。 1970年代から約半世紀にわたり表現の現場に身を置き続けた安齊は、2020年8月13日、心不全により81歳で没した。最晩年まで、「自分がいま目の前にしているものを、何なのかと受け止められる感受性のアンテナ」(註3)を重んじ、アートドキュメンタリストとしての矜持を貫いた。 安齊の写真に特有の黒枠は、ネガキャリアの窓をやすりで削り、現像時に露光させることで生じたものだ。これは、恣意的なトリミングを行わず、カメラがとらえた像を最大範囲で印画しようとする意志の表明でもあった。また、展示に関して安齊は「なるべく選ばないで、並列的に並べる」、「目で見る年譜みたいにした」い(註4)と述べており、展覧会には数千枚規模のプリントが並ぶこともあった。こうしたトリミングの放棄、プリント選択の最小化には、「写したかったもの」ではなく「写ってしまうもの」を提示すべきという彼の写真観があらわれている(註5)。だが同時に、黒枠は特定のイメージを世界から分節化する額縁のようにも見えるし、余白の書き込みや破いた印画紙の縁に残る手の痕跡が複製芸術である写真に一回性のアウラを付与してもいる。最小限に見える選択行為についても、被写体選定という局面においては強力な意図が働いていたと考えられる(註6)。このような性格を持つプリントは、当然のことながら透明な記録媒体などではなく、撮影者の主体が否応なく投影された作品でもある。安齊の写真の視覚資料としての価値は近年ますます高まり、展示や学術研究における活用も増加している。しかし、それらを一次資料として用いる際、とりわけ現物が失われた表現などの参考資料にする場合には、「写真に撮られた作品と本物との間には絶対にギャップがある」(註7)という安齊自身の言葉を想起し、彼のプリントに内在する記録と表現の両義性に留意すべきであろう。 安齊の写真のまとまったコレクションは、国立国際美術館、アーティゾン美術館(東京)、東京都現代美術館、M+(香港)などに収蔵されている。また後半生の安齊は、資料としての活用を見据えたプリントの制作を意識的に行うようにもなった。国立新美術館の「ANZAÏフォトアーカイブ」や、国立国際美術館が「教育資料・その他」として作品とは別に所蔵するプリントでは、ヴィンテージプリントに多用されたバライタ紙ではなくRCペーパーが用いられ、黒枠はあるもののサインやエディションは付されず、作品用プリントとは明確に差別化されている(註8)。さらに、暗室に残されていた膨大なネガや、印刷原稿となったプリントなどを含む資料群も存在する。こうしたいわゆるアーカイブズ資料は、安齊の没後、多摩美術大学に一括収蔵された。今後の本格的な整理と活用が期待される。 (谷口英理)(掲載日:2025-12-01) 註1 平井章一「安齊重男とその写真」(『安齊重男の"私・写・録"1970-2006』、東京:国立新美術館、2007年、11頁)などを参照のこと。 註2 李禹煥「写真空間の力学」『カメラ毎日』(特集「新写真論4 安斎重男の眼」)、30巻7号、1983年7月、140頁。 註3 「現代美術への優しいまなざし: 安斎重男氏の写真展」『草月』157号、1984年12月、92頁。 註4 同上、90頁。 註5 「インタビュー 写ってしまったものが一人歩きをはじめる:アートについての写真」『カメラ毎日』(特集「新写真論4 安斎重男の眼」)、前掲136–137頁。 註6 「現代アートの中でも僕が選択している作家は相当偏っている」と安齊は述べている(同上、135頁)。 註7 「現代美術への優しいまなざし」、前掲91頁。 註8 印画紙の使い分けはあくまでもこの2館の事例。RCペーパーで作品用のプリントも存在する。

Wikipedia

安齊 重男(あんざい しげお、1939年 - 2020年8月13日)は、神奈川県出身の写真家、アート・ドキュメンタリスト。「現代美術の伴走者」を自称し、国内外の現代美術の現場を写真によって記録した。多摩美術大学客員教授。

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VIAF ID
96101121
ULAN ID
500061914
NDL ID
00156465
Wikidata ID
Q7496358
  • 2025-08-07