- 作家名
- 朝倉文夫
- ASAKURA Fumio (index name)
- Asakura Fumio (display name)
- 朝倉文夫 (Japanese display name)
- あさくら ふみお (transliterated hiragana)
- 渡辺文夫
- 生年月日/結成年月日
- 1883-03-01
- 生地/結成地
- 大分県大野郡(現・豊後大野市)
- 没年月日/解散年月日
- 1964-04-18
- 没地/解散地
- 東京都台東区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 彫刻
作家解説
1883年3月1日、大分県大野郡池田村(現・豊後大野[ぶんごおおの]市)の渡辺要蔵[ようぞう]とキミの三男として生まれる。11人兄弟姉妹であり、長兄は、日本橋(東京都中央区)欄干の獅子と麒麟の像で知られる彫刻家・渡辺長男[おさお]である。1889年の町村合併により生家所在地名が上井田村[かみいだむら]となり、実父・要蔵は上井田村初代村長を1904年までつとめている。1893年1月20日、朝倉種彦[たねひこ]とツ子[つね]の養子となる。同日付は公的書類によるものであり、朝倉直筆の履歴「朝倉文夫制作展」によると、養父・種彦が没した1891年9月のこととある。
1897年、尋常小学校に続く高等小学校を卒業し、大分県大分尋常中学校竹田[たけた]分校(翌年大分県立竹田中学校に改称)に入学するも1902年に中退し、すでに彫刻家として活躍していた長兄を頼って上京する。このとき、兄のもとで初めて彫塑に触れ、制作の実際を目の当たりにする。このことが機縁となり彫刻の道を志し、翌1903年、東京美術学校(美校、現・東京藝術大学)彫刻撰科に入学する。
学生時代には基礎技術の習得に傾注する。その姿勢は、常に自らの頭と目と手を動かし、鍛錬を重ねるというものであった。こうした姿勢を反映して、学びの場は美校にとどまることなく、自身の状況や必要に応じて、柔軟に見出していった。たとえば、美校教授の大島如雲[おおしまじょうん]の紹介によるハマモノ(ここでは輸出用動物彫刻置物)の原型製作のアルバイトでは、依頼主である貿易商たちの要望に応えつつ、日々その製作に没頭した。こうした経験は、基礎技術の向上をもたらすとともに、知らず知らずのうちに表現の幅を拡げることにもつながった。このアルバイトは同時に、苦学生であった朝倉に経済的安定をもたらし、修行期の修練環境を整えた。また、美校在学中には、太平洋画会研究所にも通い、デッサンを学んでいる。その理由については、「彫塑に比べると絵画の方はいつの時代でも論理的に進んでいたし、教育法も基礎技術もはるかに早く確立していた。そこでわれわれは、絵画によって彫刻の基礎を学びとることを考え」たということによる。もっとも、デッサンを繰り返すうちに「彫刻の行き方とデッサンのやり方の相違に気づ」くに至り(『朝倉文夫文集 彫塑余滴』[再版]東京: 財団法人台東区芸術文化財団ほか、2004年、285、286頁)、論理だけではない体験に基づく分析的な視座から軌道修正を図る。ハマモノの原型製作や太平洋画会研究所への通所からは、自らの体験や実践を重視する朝倉の実証主義的な側面を窺い知ることができる。こうした姿勢が功を奏し、美校在学中より頭角を現し、受賞、褒章を重ねている。
1907年、ダーウィンの進化論に着想を得た《進化》(1907年、台東区立朝倉彫塑館、東京)を卒業制作とし、美校を卒業する。卒業後は研究科に進むと同時に、下谷区谷中天王寺町(現・台東区)に最初のアトリエと住居を構える。この時期以降、文部省美術展覧会(文展)に意欲的に出品し、早くからその才を認められ、文展の中心的な存在となる。1908年、第2回文展に《闇》を出品し2等最高賞を受賞、翌第3回文展には《山から来た男》(1909年、東京国立近代美術館)、《肖像(宮崎きく像)》(1909年、台東区立朝倉彫塑館)、《猫(吊された猫)》を出品する。初期文展においては、早世した荻原碌山(守衛)[おぎはらろくざん(もりえ)]と最高賞を競い合った。
第4回文展に出品した《墓守》(1910年、台東区立朝倉彫塑館)は、自他ともに認める代表作であり、表現者としての転換点となった作品であると自称している。《墓守》の制作を通して、自然を師として客観の立場で制作に臨むという、自らの表現手法の礎となる自然主義的写実を確立する。ここにおいて朝倉が到達した純客観の立場とは、表現と技巧、そしてこれらにより自然にもたらされる思想を過不足なく形にする手法といえる。言い訳や冗長な説明が入る余地のない、作り手にとって非常に厳しい手法ともいえる。もっとも朝倉は、その卓越した技術力、観察眼を以てこの手法を見事に自分のものにしている。《墓守》の石膏原型は、のちに国の重要文化財に指定されている。
確固たる技術力に裏打ちされた自然主義的写実の作風から、肖像彫刻の分野でも活躍した。その数は400体ともいう。肖像彫刻についての「似ないと言われるものは作らない。似とるというまでは何遍でも拵える事にしている。形が似ないでその人の性格が現われているなどという事は、あり得ないわけで、形あってこそ、性格なりその内面をも現わすに至るものなのだ」(『朝倉文夫文集 彫塑余滴』254頁)という朝倉の言葉には、その芸術思想と肖像彫刻に向き合う姿勢が端的に現れている。
一方で、朝倉のこうした姿勢や表現は、その卓越した技術力のゆえか、技巧的という批判を招くこともあった。しかし、朝倉は技巧を妄信したわけではない。朝倉の思想は明快である。すなわち、芸術家である以上、表現するものとして、自由な個性、そしてそれを勇敢に表現できるものでなければならない。しかし、それを実現せしめる技巧を忘れ、思想ばかり先走るのでは、当然の如く制作は行き詰まる。「技巧即思想」(『朝倉文夫文集 彫塑余滴』35頁)を離れての表現が実を結ぶことはない。こうした境地から純客観の立場に至り、「ある内容の思想からその形を表わそうとしたものでなくして、その形が直に内容を表明するに到っている」(『朝倉文夫文集 彫塑余滴』38頁)という表現に辿り着く。いわば、作品に自らの主観・主題を語らせるのではなく、作品が自ら語り出すような作品を手掛けるものといえる。こうした覚悟をもった制作手法は、「自然そのままの表現の価値が芸術の価値に帰着する。芸術家の力は物を考へる力でなくて物を見る力だ、そして表現する力だ、といふことに帰納」(『航南瑣話』東京: 東和出版会、1943年、23頁)していく。「そして芸術は、自分と自然との間からのみ生み出されてゆく」(『朝倉文夫文集 彫塑余滴』297頁)ものだとする信念を持ち続けた。
彫刻家としての顔のみならず、教育者としての側面も有していた。美校を卒業して間もないころから朝倉のもとに弟子入りを請う者は多く、これに応え、私塾の形態で弟子の育成に力を注いだ。ここでは木内克[きのうちよし]、福沢一郎[ふくざわいちろう]、日名子実三[ひなごじつぞう]、安藤照[あんどうてる]らが学んでいる。1921年に美校で教鞭をとるようになってからは、経済的困窮をはじめとする苦境に喘ぐ学生の姿を目の当りにし、私塾を月謝不要の正式な学校とすべく準備を始める。この間にも学生の窮状に寄り添い、アトリエを開放し、無償で教授し、塾展を開催して発表の場を設けるという活動を継続する。1935年に自宅とアトリエを新築(現・台東区立台東区立朝倉彫塑館)し、翌年には行政庁より学校開設の許可を受け、朝倉彫塑塾の活動はいよいよ活発化する。
1924年には帝国美術院会員となり、彫刻界の中心的な存在として活躍する。戦時中には彫刻界を代表し、情緒に訴えるのではなく、事実に基づいて金属類回収令の不条理を省庁や軍に説いてまわった。
戦後は人体彫刻に新たな展開を見せ、制作活動はますます旺盛となり、日展を中心に作品を発表した。日本彫刻界を牽引する存在として、1947年に日本彫刻家連盟を結成、同連盟は1953年に日本彫刻家倶楽部(現・日本彫刻会)に継承され、朝倉は顧問となる。また、1948年、彫刻家として初めて文化勲章を受章し、1951年には文化功労者となる。1954年11月、彫刻家活動50年を記念し、朝倉文夫回顧展を日本橋髙島屋(東京)にて開催する。1961年、ゆかりのある竹田市において竹田市名誉市民、また、公私ともに活動の拠点とした台東区において台東区名誉区民となる。1964年には東京オリンピック開催と自らの彫刻家活動60年を記念し、「猫百態展」を企画した。しなやかで躍動感あふれる猫は、当時から人気の高いモティーフである。開催に向け制作に励んでいたが、病にたおれ実現には至らなかった。1964年4月18日、急性骨髄性白血病により、享年81歳で没する。
没後の1967年、遺族により自宅兼アトリエの朝倉彫塑館が美術館として公開される。同館は1986年に台東区に寄贈され、台東区立朝倉彫塑館となる。制作のみならず、生活の本拠とした場所であり、随所に朝倉の美学が凝縮された空間である。さらに、郷里にて生前より計画されていた「愛の園生[そのう]」計画は、朝地町[あさじまち](現・豊後大野市)が引き継ぎ、1991年に朝倉文夫記念館を開館する。
長女に画家で舞台美術家の朝倉摂[せつ]、次女に彫刻家の朝倉響子[きょうこ]がいる。
(戸張 泰子)(掲載日:2023-09-27)
*本文中で所蔵先を示す作品は石膏原型。
- 1954
- 朝倉文夫回顧展, 高島屋 (日本橋), 1954年.
- 1983
- 朝倉文夫展: 生誕100年記念, 大分県立芸術会館, 1983年.
- 1994
- 「猫百態展」へ向かって: 朝倉文夫没後30年特別展, 台東区立朝倉彫塑館, 1994年.
- 1998
- 五人の彫塑家展: 碌山・光太郎・文夫・孤雁・悌二郎: アトリエの展覧会, 台東区立朝倉彫塑館, 1998年.
- 1999
- 荻原守衛と朝倉文夫展: 日本近代彫塑入門, 徳島県立近代美術館, 1999年.
- 2004
- 自然と朝倉文夫: その表現の広がり, 台東区立朝倉彫塑館, 2004年.
- 2006
- 石松健男写真展: 朝倉文夫1962年12月: 朝倉彫塑館特別展, 台東区立朝倉彫塑館, 2006年.
- 2009
- 近代日本美術の精華: 東京藝大美術館コレクションを中心に: 石川県立美術館開設50周年記念, 石川県立美術館, 2009年.
- 2010
- 朝倉文夫: 朝倉彫塑館所蔵: コレクション展 Part1, 東京藝術大学大学美術館, 2010年.
- 2011
- 朝倉文夫の世界: 愛の園生朝倉文夫記念公園開園20周年記念特別展, 朝倉文夫記念館, 朝倉文夫記念文化ホール, 2011年.
- 2011
- 朝倉文夫の猫たち, 中村研一記念小金井市立はけの森美術館, 2011年.
- 2015
- 我家吾家物譚: ボクノ家ガデキルマデ: 朝倉彫塑館80年, 台東区立朝倉彫塑館, 2015年.
- 2017
- 猫百態: 朝倉彫塑館の猫たち: 開館50年記念特別展, 台東区立朝倉彫塑館, 2017年.
- 2018
- 彫刻家の眼: コレクションにみる朝倉流哲学, 台東区立朝倉彫塑館, 2018年.
- 2019
- 「国風盆栽展」の誕生: 「美術館」をめざした昭和初期の盆栽: 春季特別展, さいたま市大宮盆栽美術館, 2019年.
- 2019
- 朝倉彫塑館の白と黒 Contrast: Color, Material and Texture, 台東区立朝倉彫塑館, 2019年.
- 2020
- Enjoy Sports 朝倉文夫の1964年, 台東区立朝倉彫塑館, 2020年.
- 2021
- 歴史に学ぶ: 朝倉先生いのちの講義, 台東区立朝倉彫塑館, 2021年.
- 2023
- 生誕140年特別展: アトリエの朝倉文夫, 台東区立朝倉彫塑館, 2023年.
- 2023
- 猫と巡る140年、そして現在: 朝倉文夫生誕一四〇周年記念, 大分県立美術館, 2023年.
- 2023
- 兄と弟: 渡辺長男と朝倉文夫: 特別展, 台東区立朝倉彫塑館, 2023年.
- 台東区立朝倉彫塑館, 東京
- 朝倉文夫記念館, 大分県豊後大野市
- 尚古集成館, 鹿児島市
- 東京国立近代美術館
- 東京藝術大学大学美術館
- 秩父宮記念スポーツ博物館, 千葉県船橋市
- 三の丸尚蔵館, 東京
- 東京都美術館
- 大分県立美術館
- 大分市美術館
- 箱根 彫刻の森美術館
- 福岡市美術館
- 秋田県立近代美術館
- 茨城県近代美術館
- 1912
- 朝倉文夫編『南洋の銅器』東京: 画報社, 1912年 [自筆文献].
- 1934
- 朝倉文夫『彫塑余滴』東京: 岡倉書房, 1934年 [自筆文献].
- 1940
- 朝倉文夫『東洋蘭の作り方』東京: 三省堂, 1940年 [自筆文献].
- 1942
- 朝倉文夫『衣・食・住: 朝倉文夫随筆集』東京: 日本電建出版部, 1942年 [自筆文献].
- 1942
- 朝倉文夫『美の成果』東京: 国文社, 1942年 [自筆文献].
- 1942
- 朝倉文夫『民族の美』東京: 婦女界社, 1942年 [自筆文献].
- 1943
- 朝倉文夫『航南瑣話』東京: 東和出版社, 1943年 [自筆文献].
- 1955
- 石元泰博, 大辻清司撮影『カメラの把えた朝倉文夫の彫塑』東京: 朝倉彫塑塾, 1955年.
- 1966
- 朝倉文夫『彫塑朝倉文夫』加藤顕清, 木内克, 佐藤忠良編. 藤本四八撮影. 東京: 平凡社, 1966年.
- 1986
- 朝倉彫塑館編『朝倉彫塑館の記録』東京: 朝倉彫塑館, 1986年.
- 1997
- 『朝倉文夫』豊後大野(大分県): 愛の園生朝倉文夫記念公園・記念館, 1997年.
- 2004
- 朝倉文夫『彫塑余滴: 朝倉文夫文集』東京: 台東区芸術文化財団台東区立朝倉彫塑館, 再版2004年 [自筆文献].
- 2014
- 台東区立朝倉彫塑館編『朝倉彫塑館』東京: 台東区芸術文化財団, 2014年.
- 2016
- 台東区立朝倉彫塑館編『朝倉彫塑館所蔵朝倉文夫石膏原型作品集』東京: 台東区芸術文化財団, 2016年.
- 2018
- 朝倉文夫記念館編『日本近代彫塑の巨匠 朝倉文夫』No.1- . 豊後大野(大分県): 朝倉文夫記念館, 2018年-.
- 2018
- 『猫の本: 朝倉文夫』東京: 台東区芸術文化財団; 朝倉彫塑館, 2018年.
- 2019
- 東京文化財研究所「朝倉文夫」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9034.html
- 2021
- 『我家吾家物譚: 未定稿. 朝倉彫塑館写真集』[東京]: 台東区芸術文化財団, 朝倉彫塑館, 2021年.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「朝倉文夫」『日本美術年鑑』昭和40年版(128-131頁)彫塑家、日本芸術院会員朝倉文夫は、4月18日午前9時30分、急性骨髄性白血症のため東京都台東区の自宅で逝去した。享年81才。明治16年3月1日大分県直入郡に生まれる。明治35年9月郷里の中学校を中退し、実兄の彫塑家、渡辺長男を頼って上京、翌36年4月東京美術学校彫刻選科に入学した。明治40年3月同校を卒業し、翌年の第2回文展に出品した「闇」に一躍2等賞が与えられ、世人瞠目の中にひきつづき7度の受賞...
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朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。
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- 2023-11-21