- 作家名
- 赤瀬川原平
- AKASEGAWA Genpei (index name)
- Akasegawa Genpei (display name)
- 赤瀬川原平 (Japanese display name)
- あかせがわ げんぺい (transliterated hiragana)
- 尾辻克彦 (pen name)
- 赤瀬川克彦 (real name)
- Akasegawa Gempei
- Otsuji Katsuhiko
- 生年月日/結成年月日
- 1937-03-27
- 生地/結成地
- 神奈川県横浜市
- 没年月日/解散年月日
- 2014-10-26
- 没地/解散地
- 東京都町田市
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
- 版画
- イラストレーション
- マンガ
- コンセプチュアルアート
作家解説
1937年、神奈川県横浜市生まれ。本名は克彦。父の廣長は倉庫会社に勤務し、俳人としても活動していた。兄の隼彦は後に赤瀬川隼の名で作家となり、姉の晴子は帽子デザイナーとして活躍した。父の転勤に伴って幼少期は兵庫県芦屋市、福岡県門司市(現・北九州市)、大分県大分市を転々とし、大分で大空襲を経験した後、同地で終戦を迎える。小中学校を通じて悩んだ夜尿症、終戦後の父の失業による家庭の貧窮など、幼い赤瀬川の劣等感の救いとなっていたのは絵を描くことだった。中学では演劇部に入部し、友人と新聞の発行を試みるなど文化への関心が高く、中学2年生の頃(1950年)、市内唯一の画材店に集まっていた美術グループ「新世紀群」に出入りするようになり、グループの命名者である磯崎新、そして吉村益信と出会う。1952年、父の就職に伴って愛知県名古屋市に移り、県立旭丘高等学校美術科に入学。同級生には荒川修作、岩田信市らがいた。高校卒業後は武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)油絵学科に入るも、1957年に事実上中退。同年に日本アンデパンダン展に初出品し、翌年には読売アンデパンダン展にも出品。この頃の彼の絵画がカフカの小説やアフリカを主題としていた背景には、メキシコ美術展(東京国立博物館、1955年)で見た原始的・民族的なエネルギーへの憧れや、花田清輝がシュル・ドキュメンタリズムと呼んでいた新たなリアリズムからの感化があった。
1959年暮れ、吉村から前衛グループ参加の誘いを受けたことを機に本格的な作家活動が始まる。翌60年、当初「オール・ジャパン」と名乗ったグループはメンバーを増員して「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」として銀座画廊で結成展を開催。有機物や廃材を用いた反抗的、攻撃的な作品が並ぶ中で赤瀬川もオブジェを発表した。読売アンデパンダン展を舞台に「反芸術」の嵐が吹き荒れていたこの頃、「ネオ・ダダ」(途中でグループ改名)は篠原有司男の派手なパフォーマンスなどで注目を浴び、若い前衛集団の代表格となった。立て続けに3度の展示を開催し複数のイベントも行ったが、リーダーの吉村の結婚を機に1960年の内に終息(篠原の母の姓名判断に基づいて、赤瀬川はこの頃から「原平」を名乗るようになる)。赤瀬川はタイヤチューブなど廃材を用いたオブジェを61年、62年の読売アンデパンダン展に出品し、62年にはシェル美術賞展に初入選し3席を受賞。最終回となった63年の第15回読売アンデパンダン展には千円札を巨大に拡大模写したパネルと、キャンバスをクラフト紙で梱包した作品を出品した。
第15回読売アンデパンダン展の直後、座談会を通じて意気投合した高松次郎、中西夏之とともに「ハイレッド・センター」を結成。グループ名が示す通り擬似的な法人として、1963年から翌年にかけて、反芸術の熱狂とは異質な、あえて格式ばったイベントを数々実行した。これと並行する時期、当時の赤瀬川がトレードマークとしていた千円札のモチーフが警察の目に止まり、65年には起訴にまで発展する事態となる。通貨及証券模造取締法違反の廉で最終的に70年に有罪が確定するまでのいわゆる「千円札裁判(千円札事件)」は多数の美術関係者を巻き込み、司法の場で国と美術が争う史上稀なケースとなるとともに、赤瀬川のその後の活動を決定づけた。生活の糧の意味もあって文筆とイラストが活動の中心となり、その内容は同時期の新左翼運動とも同調して国家や資本を嘲笑うパロディ的特徴が色濃くなる。1970年から『朝日ジャーナル』誌に連載した雑誌内新聞「桜画報」をはじめ、数々の媒体での発表を重ねた赤瀬川は60年代から70年代にかけて印刷文化の寵児の一人となった。1970年からは美学校の講師として教壇に立つ。既存の美術分野に収まらない同校の教育方針は赤瀬川のメタ美術的指向をさらに促し、生徒とともに日常生活の細部から一気に社会全体を批評する視点を培った。美学校での実践が拡大した活動の代表的な事例が、路上で無用化した奇妙な物体や状況「トマソン」を報告する「超芸術探査本部トマソン観測センター」の発足(1982年)である。もとより赤瀬川は、編集者の松田哲夫や美学校生徒であった南伸坊をはじめ知人らと集って同人組織をしばしば立ち上げていたが(「革命的燐寸主義者同盟」1968年〜、「革命的珍本主義者同盟」1969年〜、「娑婆留闘社」1969年〜、「ロイヤル天文同好会」1974年〜、「路上観察学会」1986年〜、「脳内リゾート開発事業団」1992年〜、「ライカ同盟」1992年〜、「縄文建築団」1995年〜、「日本美術応援団」1996年〜)、これも政治団体ないし美術団体結成のパロディとして捉えることができるだろう。千円札事件以降の赤瀬川の活動のほとんどは、こうした美術の観点を活かした社会学研究的「事業」に割かれることとなる。
文筆では1978年に初の小説を発表、翌79年から尾辻克彦名義で文壇に参入し、81年には「父が消えた」で芥川賞を受賞した。『東京ミキサー計画』(1984年)、『いまやアクションあるのみ!』(1985年)における60年代前衛の述懐は重要な美術資料となり、その後の美術史の記述に大きな影響を与えている。89年の勅使河原宏監督映画『利休』では脚本を手がけ、98年の著書『老人力』はベストセラーとなって流行語も生み出した。95年には名古屋市美術館で大規模個展を開催し、2014年の町田市民文学館での個展「尾辻克彦×赤瀬川原平」の会期中、そして二度目の大規模回顧展「赤瀬川原平の芸術原論」(千葉市美術館ほか)開催の二日前、敗血症にて世を去った。
60年代の前衛に足跡を残した代表作家である一方で、大半は会場芸術とは異なる形態で作品を発表した幅広い活動領域において特異な芸術家といえよう。活動は多岐にわたるが、その諧謔精神と定型を脱構築する姿勢はどの分野における活動でも一貫していた。著作や漫画、イラストなどを除いた美術作品の代表作を挙げれば、第13回読売アンデパンダン展出品作《ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)》(1961年/94年再制作、東京国立近代美術館)、千円札の拡大模写《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》(1963年、名古屋市美術館)、《宇宙の缶詰》(1964年/94年再制作、個人蔵)、千円札事件のきっかけとなった《模型千円札》(1963年、東京国立近代美術館ほか)、《大日本零円札(原画)》(1967年、東京国立近代美術館ほか)などがある。
(成相肇)(掲載日:2025-12-01)
- 1995
- 赤瀬川原平の冒険: 脳内リゾート開発大作戦, 名古屋市美術館, 1995年.
- 2013
- ハイレッド・センター: 「直接行動」の軌跡展, 名古屋市美術館, 2013–2014年.
- 2014
- 尾辻克彦×赤瀬川原平: 文学と美術の多面体展, 町田市民文学館 ことばらんど, 2014年.
- 2014
- 赤瀬川原平の芸術原論展: 1960年代から現在まで, 千葉市美術館, 大分市美術館, 広島市現代美術館, 2014–2015年.
- 名古屋市美術館
- 東京国立近代美術館
- 愛知県美術館
- 福岡市美術館
- 国立国際美術館, 大阪
- 東京都現代美術館
- 高松市美術館, 香川県
- 京都国立近代美術館
- 府中市美術館, 東京
- 刈谷市美術館, 愛知県
- 1970
- 赤瀬川原平『オブジェを持った無産者: 赤瀬川原平の文章』東京: 現代思潮社, 1970年. [自筆文献].
- 1971
- 赤瀬川原平『櫻画報 永久保存版』東京, 東京: 櫻画報社, 青林堂(発売), 1971年. [自筆文献].
- 1972
- 赤瀬川原平『追放された野次馬: 思想的変質者の十字路』東京: 現代評論社, 1972年. [自筆文献].
- 1981
- 尾辻克彦『父が消えた: 五つの短篇小説』東京: 文藝春秋, 1981年. [自筆文献 (小説)].
- 1984
- 赤瀬川原平『東京ミキサー計画: ハイレッド・センター直接行動の記録 Parco Picture Backs』東京: PARCO出版局, 1984年. [自筆文献].
- 1985
- 赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象 水星文庫』東京: 筑摩書房, 1985年. (改題: 『反芸術アンパン ちくま文庫』東京: 筑摩書房, 1994年.) [自筆文献].
- 1985
- 赤瀬川原平『外骨という人がいた!: 学術小説』東京: 白水社, 1985年. [自筆文献 (小説)].
- 1987
- 赤瀬川原平『超芸術トマソン ちくま文庫』東京: 筑摩書房, 1987年. [自筆文献].
- 1987
- 『赤瀬川原平特集 機関: 美術をめぐる思想と評論 14号』(1987年1月).
- 1988
- 赤瀬川原平『芸術原論』東京: 岩波書店, 1988年. [自筆文献].
- 1993
- 赤瀬川原平, 藤森照信, 南伸坊編『路上観察学入門』東京: 筑摩書房, 1986年 (『路上観察学入門 ちくま文庫』東京: 筑摩書房, 1993年).
- 1998
- 赤瀬川原平『老人力』[1]–2. 東京: 筑摩書房, 1998年. [自筆文献].
- 1999
- 『特集: 赤瀬川原平の謎 太陽 37巻9号』(1999年9月).
- 2000
- 赤瀬川原平, 山下裕二『日本美術応援団』東京: 日経BP社, 2000年.
- 2001
- 赤瀬川原平『全面自供!』東京: 晶文社, 2001年. [自筆文献].
- 2004
- 『特集: 芸術家・赤瀬川原平 美術手帖 第853号』(2004年8月).
- 2013
- 山田諭, 光田由里編『ハイレッド・センター: 「直接行動」の軌跡展』[出版地不明]: 「ハイレッド・センター」展実行委員会, 2013年 (会場: 名古屋市美術館, 渋谷区立松濤美術館).
- 2014
- 『赤瀬川原平: 現代赤瀬川考. KAWADE夢ムック』東京: 河出書房新社, 2014年.
- 2014
- 『赤瀬川原平追悼特別企画 アックス vol. 102』2014年12月. 東京: 青林工藝舎.
- 2014
- 千葉市美術館, 大分市美術館, 広島市現代美術館編『赤瀬川原平の芸術原論展: 1960年代から現在まで』[千葉]: 千葉市美術館, 2014年 (会場: 千葉市美術館, 大分市美術館, 広島市現代美術館).
- 2015
- 『追悼大特集: 超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙 芸術新潮 66巻2号』(2015年2月).
- 2019
- 東京文化財研究所「赤瀬川原平」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247380.html
- 2024
- 勝田琴絵「赤瀬川原平のスクラップブック: 〈模型千円札事件〉関連記事目録」『名古屋市美術館研究紀要』第18巻 (2024年3月): 25–34頁.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「赤瀬川原平」『日本美術年鑑』平成27年版(515頁)美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」...
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赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい、1937年3月27日 - 2014年10月26日)は、日本の前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人。2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。
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- 2025-11-13