「SHŪZŌ」はどう使う? アーティストと考える収蔵品データベース活用の道

2023年3月26日

対談企画

全国の美術館の収蔵品を横断検索できる「SHŪZŌ」をめぐって、国立アートリサーチセンター 情報資料グループ 研究資料委員会委員の成相肇と副田一穂、アーティストの藤井光と飯山由貴がディスカッション。「SHŪZŌ」の運営に携わる手錢和加子が文化庁アートプラットフォーム事業事務局を代表して同席した。データベースの現状と今後の拡張について考える。(敬称略)

対談参加者5名が椅子に座ってこちらを見上げている写真2023年1月某日、国立新美術館にて。左から時計回りに: 成相肇(東京国立近代美術館主任研究員)、副田一穂(愛知県美術館主任学芸員)、手錢和加子(文化庁アートプラットフォーム事業事務局)、藤井光(美術家)、飯山由貴(美術家)

データベースを入口にどんなリサーチができるのか?

手錢和加子(以下、手錢):SHŪZŌ」 は、明治以降の作家と作品情報を収録したデータベースです。文化庁アートプラットフォーム事業の一環として 2021年3月にローンチしました。全国152の美術館の収蔵品 14万7,040点、作家 2,170人の情報(2023年1月現在)が、検索できます。

全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ」の画面キャプチャ 全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ」(画像は2023年1月時点)

成相肇(以下、成相): これからどんどん充実させていきたいということで、今日はアーティストの藤井光さんと飯山由貴さん、キュレーターの副田一穂さんにも愛知から来ていただきました。「SHŪZŌ」 の今後を考える具体的なヒントをいただけたらと思っています。
藤井さんと飯山さんは、お二人ともリサーチベースの作品をよく作っていらっしゃいますよね。リサーチがそれぞれの作品制作においてどういう位置付けなのか。どういった重要性があるのかをまず伺ってみたいです。藤井さんの場合、美術品のデータベースを使った作品といえば、最近だと戦争画を扱った展示 がありますね。

藤井光(以下、藤井): そうですね。もっと遡れば 「トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために」 展(2018年、国立国際美術館)の時もそうでした。

成相: 《南蛮絵図》(2017年)ですね。

藤井: はい。コミッションでしたし、自分が作品を配置する空間の背景を知りたかった。「SHŪZŌ」がまだなかったので、国立美術館4館の収蔵品データベース(※国立美術館所蔵作品総合目録)をとりあえずボーッとですけれども、全部見ました。その中でハッと止まったのが石元泰博さんの〈複製写真 モネ「睡蓮」〉(1980年)。これは何なんだ? どうしてわざわざMoMA(ニューヨーク近代美術館)まで行ってモネを撮ったんだ? と思ったんです。それで調べていったら、この作品は国立国際美術館ができる時のコミッションで、他にもいろんな写真家に頼んでいたことが分かった。その流れで奈良原一高さんの〈複製写真「南蛮屏風」〉(1982年) に辿り着きました 。

南蛮屏風図の大きな写真を人が手を伸ばして運んでいる写真《南蛮絵図》の静止画。国立国際美術館の収蔵作品の調査を通して出会った奈良原一高による南蛮屏風図(リスボン国立古美術館の所蔵)の複製写真とその部分拡大写真を、アフリカ系の人物が収蔵庫から運び出し、館内に展示する光景を映像化 | ©藤井光

成相: 作品を作る時の入口として、収蔵品のデータベースがあることは助力になりますか?

藤井: 直接的ではありませんが、この時のリサーチのきっかけとしてはまさにデータベースでしたよね。

副田一穂(以下、副田): それはアクセシブルだから? ザーッと眺めるには、紙媒体の方が見やすいという意見もよく聞きますが。

藤井: 僕の場合、担当キュレーターに紙媒体の手配を頼むという発想がそもそもなかった。細かい話になりますが、年代順に見たんですよ。

副田: そういう細部をぜひ伺いたいです。

成相: 収集年?制作年?

藤井: 制作年。過去から順に見ていきました。

成相: なるほど。特定の作品への関心を抜きにしてひたすら網羅的に見ていくと発見がありますね。

藤井: データベースを前にして面白いのは、あ、自分はここに引っ張られているなっていう無意識が分かること。当時、十五年戦争の時代(1931‒45年)に興味があったのでやっぱりそっちの方に行っちゃうんだけど、結局そういうところは選ばなかった。

ザーッと眺めることで見えてくる

成相肇が話をしている写真成相肇(東京国立近代美術館主任研究員)

成相: 飯山さんは、美術館の収蔵品データを見ることはありますか?

飯山由貴(以下、飯山): ほとんどないです。ただ、収蔵品に関する作品を作ったことはあります。「歴史する! Doing history!」(2016年、福岡市美術館) で制作発表したテキストと映像によるインスタレーションで、同館のコレクション展示を目の前にした来場者がそこで何を話しているのか、何をどう感じているのか、というのを採集するような作品《作品の前で語られた、いくつかの会話》(2016年)を作りました。

成相: 聞き取りによって収集したのですか?

飯山: 基本的にはギャラリーガイドボランティアさんと、ギャラリーツアー参加者の間で交わされた会話です。福岡市美術館ではボランティアさんたちによる対話型鑑賞を毎週実施していて、私は消極的な参加者という感じでそこにいました。話題になった作品は、ラファエル・コランの《海辺にて》、やなぎみわの〈エレベーターガール〉シリーズなど4、5点です。あと、コレクション目録には入らないけれどもその美術館と地域に関係した人の銅像なども。

成相: 黒田清輝(※コランに師事した近代洋画家)の話を交えながら盛り上がったり?

飯山: いや、もっと生々しい受け取り方だったのでびっくりしました。「裸婦のモチーフってなんか嫌」とか「こんな綺麗な体でいいわね」とか、冷めた見方を高齢の女性がしているのが興味深かった。やなぎみわの作品を見た高齢の男性は「彼女たちはイキイキと働いているんだ」とか……ある意味正直なコメントだと思いますが、そういう生の情報を文字に起こし、小説でも台本でもあるようなテキストにして、2016年にかつてこのような会話がありました、と未来のお客さんが見られるようにしたんです。

女性が紙を持ちながら壁にかかった大きな絵画を見ている写真《作品の前で語られた、いくつかの会話》の展示風景。福岡市美術館からの依頼を受け、美術館の歴史、現在、未来をキーワードに制作。7つのテキストとシングルチャンネルビデオ、サウンドによる16分34秒。撮影:山中慎太郎(Qsyum!) | ©飯山由貴

成相: 興味深いです。

副田: 今、リサーチしていることはありますか?

飯山: 最近考えているのは、証言者がいなくなってきている出来事についての作品。映像ではなく、地図のような視覚的な形式で作りたいなと。

成相: どんなテーマで?

飯山: 日本を起点とした、性労働者の女性たちの国境を超えた移動の足跡といいますか。その歴史のなかにはアジア太平洋戦争中、慰安婦となった人たち、された人たち、日本そして旧植民地と占領地域の女性たちが含まれると思います。移動の中に人々のどういう生活があったのか、文化、服装、状況はどうだったのか。そういった個別具体的な事例が時間と地域を超えて感覚的につかめるかもしれない絵地図のようなものを作りたい。作る前から、きっと何かが間違っていたり、不完全なものになることは予想ができているけれども、可視化する努力をしなくてはいけないのではないかと思っています。足跡がみえないなら探ればいいと思っていたのですが、取材を進めるうちに、これは同時に他の女性表象との比較が必要だとも思うようになってきて。とりあえず中世から戦後あたりまでの描かれた女性をザーッと辿ろうと思っているのですが、その時にデータベースの存在はありがたいなと思いました。概観を捉えたい時には便利なのかなと。

タグ付けはする?しない?

飯山由貴が話をしている写真飯山由貴(美術家)

成相: 飯山さんは美術作品をリサーチするとき、どこで検索しますか?

飯山: ジャパンサーチとかでしょうか。たとえばグーグル検索で「インドシナ 日本人 セックスワーカー」とイメージ検索して、すごくそれっぽい歴史的なイメージが見つけられても、そのイメージのキャプションは第三者が間違ってつけた可能性もあります。だから、イメージの出所を探さなくてはいけないですよね。その点、公的なデータベースは専門家が関わっているので信頼性が高いのでは。「SHŪZŌ」だと画像の要素が少ない気がします。もっと感覚的に探っていけるデータベースになったらいいなと思います。

成相: 感覚的に、というのは、特定の時代に絞って探るなどの使い方を想定していますか?

飯山: そうですね。「SHŪZŌ」の場合、作家名と作品の紐付きがあまりに強いような印象があります。そうではないところから作品にたどり着ける情報がもっとあればいいなと。

副田: たとえば“女性” “表象” と打ち込んだら、過去から現在までのイメージがザーッと出てくるとか?

成相: つまりタグ付けですよね。鉄道の展覧会をやりたいから、# 鉄道などのタグで検索できるようにしてほしいといったご意見はこれまでもいただいたことがあります。それは便利にも思えますが、実際は非常に難しい。技術的に難しいというより、解釈によってタグは無限に増えていく一方で、作品の意味を偏らせることもあり得るから。もしできたとしても、果たしてそれが理想なのかどうかは議論の余地がある。

飯山: 少なくとも # 人間 が描かれているとか、# 風景 であるとか。そのくらいのタグはあってもいいのかな。今の検索だとやはり作家の名前ばかりが強い気がします。

副田: 現代美術のデータベースにおいて、作者と作品が強く結びついているというのは、飯山さんがおっしゃる通りだと思います。「SHŪZŌ」では、ほぼ全ての作品に作者がいる状態。もしこれが古美術、考古遺物になってくると、当然ながら作者が必ずしも紐づかない。そうするとデータベースのインターフェースも見え方も全く変わってくるはずですよね。

Art Platform Japanの作家情報検索ページの画面キャプチャ「SHŪZŌ」の作家情報検索ページ(画像は2023年1月時点)

データベースは誰のために?

成相: アーティストのお二人の話を聞いていて思ったのは、オフィシャルの情報から漏れているものを探すというご関心があること。データベース上の情報は、その裏を探したい欲望を喚起させるものとしてある。

藤井: データベースってつまるところ、歴史の中での勝者じゃないですか。それらがずらっと並んでいる。驚くべき発見はないんです。なので、データベースとアーティストはいつも緊張関係にあります。
ここで考えるべきは、ユーザーをどこに設定するのかという問題ではないでしょうか。アーティストではなく、どちらかといえば研究者に合わせるほうがいいのでは。データベースは研究なり論評なりが進むような状態にまとめていただいて。アーティスト側はそこからある種の視線で選ばれた情報の裏をかいていったり、そこからは見えない別の角度でデータベースを使っていくと思います。

飯山: 研究や論文で言及されている作品の画像や映像などの情報をまず充実させるのはどうでしょうか。文字情報の限界をバックアップするような形のデータベースがあれば、様々な立場の人が勉強するときに使いやすいのかなと思いました。たとえば山下菊二など、重要な作家であってもその作品を網羅的に見ることができない状況において、データベースがあると見方が変わってくるかもしれない。

成相: 「SHŪZŌ」の中に山下菊二はどういう情報がありますか?

手錢: 作家名からの検索で793件のデータ資料がありますが、画像が公開できている作品はやはり少ないです。画像に関しては、今後充実させていこうとしています。

成相: データベースとアーティストの緊張関係というのは面白い視点だと思います。美術館はよく来場者のためにと言いますが、具体的に誰を想定しているのかといえば、広く一般を指すだけではなく、当然アーティストのことも含んでいるわけです。ある創作を見ていただき、次の創作につなげたい。それは美術館のひとつの使命です。「SHŪZŌ」に限らず聞いてみたいのですが、美術館はアーティストの皆さんの活動に資するような情報や素材を提供できているでしょうか?

藤井光が話をしている写真藤井光(美術家)

藤井: まず、今生きている我々アーティストに役立つことを検討いただいているのは大変ありがたいのですが……

成相: ですが……?

藤井: 美術館側のやるべきこととして、歴史記述をアーカイブによって書き換えて、そのアーカイブ自体を批判的な空間にするという大きな作業が残っていますよね。今まで収蔵されてこなかった女性作家の作品、マイノリティな表現、もう亡くなったアーティストたちを伴う土台作りをしてほしいなと思います。そこをまずやっていっていただいた方が、アーティスト側も美術館を信頼できます。

飯山: テーマから話が外れますが、アーティスト側の意見として、国公立美術館から委託を受ける際に作家への制作資金や謝金の水準が上がること、学芸員や補助スタッフの正規雇用者が増えることなど、生きている作家たちが今よりもっといい仕事をするために制度を整えてほしいです。インフラの整備をまず頑張ってほしいというのが本音です。今の日本のアーティストの状況はほとんどチキンゲームだと思うので、この状況ではアーティストやキュレーターの国籍、階級、ジェンダー、障害、エスニシティなどに偏りがある状況が変わらないのでは。

成相: アートプラットフォーム事業において、現代の作家支援もひとつの項目に入っているので、大事なご意見です。

副田: 重要な論点をたくさんいただきました。美術館というのは原理的に入れたい作品や情報が際限なくあって、極力網羅しようとしてしまう。それは藤井さんが言われるように公的な、強い歴史として成り立っていく一方で、拡張すればするほどその分影も濃くなっていく。あるいは飯山さんの福岡市美でのプロジェクトの話を聞きながら、ある作品を前にしたお客さんの呟きみたいなものを自動で収集して、それがアーカイブ化されたらどうなるだろう、ということをつい考えてしまうわけです。でも、そうやって何でもかんでも登載していくのは果たしていいことなのか?データベースをどう拡張すればアーカイブとして面白くなるだろうと考えつつ、そのような緊張関係への自制もあります。

データベースから“熟覧”へ

副田: アーティストはデータベースにおいて著作権者でもあり、否応なく登載されていく対象であり、なおかつ利用者でもあります。これについて思うことはありますか?

飯山: 最近、依頼をいただいた展示の企画資料に目を通していたら、参加予定の作家の名前全てに生没年が併記されていたんですよ。うわー、私が死ぬことも想定されているのかと。この話にオチはないんですけど、であるなら、私は自分の作品を作者不明の古美術のツボ並みに扱ってもらった方が、気が楽だなと。

成相: 登録されることへの抵抗感?

飯山: 抵抗感というか、その慣例は何に基づいているのか。根っこは何なのかということを考えてしまいました。私自身について、いつかどこの誰だか知らない人に、ある物語を設計される予感を感じるのが嫌なのかな。最近の研究者のプロフィールだと、生年表記がないことが多いですよね。

成相: 生没年の表記は、歴史記述という態度から求められることではあると思います。お二人の制作メディアを踏まえて、イメージの登録に関していうと、映像の場合は作品そのものではなく、ある代表的なシーンのキャプチャがデータベースに登録されることが多いですよね。これについてはどう思われますか?

藤井 なんの抵抗もないです。展覧会のパンフレットやチラシにおいてもそうですし。

成相: アーティストによってはVimeoやYouTubeなどで映像作品を公開していたりもするケースもありますよね。もちろん個々人でアプローチが異なりますが、お二人は、そのようにアクセシビリティを高める方がいいと思うでしょうか、それとも映像そのものをオープンにする仕方には抵抗感があるのでしょうか。

藤井: キャプチャは、事物としての作品にアクセスする扉のようなもの、ひとつのきっかけであって。そこに映像作品がなくても問題ないんじゃないかな。

飯山: 厳密に言えば、絵画作品もデータベース上にあるのは画像であって現物ではない。

藤井: そうですよね。それが分かった上で、じゃあどうしようかと。以前、東近美(東京国立近代美術館)で戦争画の裏側を見せていただこうとした時に、ジュクランっていう届けが必要で。初めて知った言葉だったんだけど。

飯山: どういう字ですか?

副田: 「熟」に「覧」。じっくり見る。

対談参加者5名が会議室で向かい合って座り、話し合っている写真


飯山: じっくり見るための届出?

藤井: そう。それを提出すれば、美術館の裏にある収蔵庫でじっくり見せてもらえる。

成相: 一般的な公開レベル以上の閲覧をしたい時、まず熟覧届を出していただいてからご覧いただいています。

飯山: そのプロセスをきちんと踏めば、どんな人でも見ることができるのですか?

成相: はい、正当な理由があれば。多くの美術館が制度上持っているルールです。たとえば模写も熟覧に類する制度です。

藤井: で、その時に熟覧するまでに僕を駆り立てたきっかけは、ある研究書の訳注でした。お!これは!と動かされたものがあって。

飯山: 分かります。制作する作品が「リサーチベース」と称されるけれど、私は結局、他の方の研究をお借りして、取材をしているだけなので…。

藤井: 僕の場合、たとえば収蔵庫の中に1週間こもって3万点ほどある収蔵品を全部見たりとか。ちょっと変態っぽく聞こえるかもしれませんが、僕はそういう性格だったりします。ただし自分自身のリサーチにおける素人な感じはすごく自覚もしていて。やはり視覚推理力や感性に頼っている。だから先行研究をちゃんと研究している研究者、学知みたいなものとの連携は大切にしています、という話です。

飯山: アーティストにとってのオンラインデータベースはあくまで本当に最初の糸口であって。藤井さんが仰られたように自分にあるすべての感覚を使って、この現実にある空間や物としてのアーカイブや資料に接触すること、そしてそれに関連する研究者や専門家、コミュニティと接点をもつことが大切だと思います。ほとんどのアーティストは資料(史料)調査の専門家ではないので、試行錯誤しながらすすめている人が多いのではないでしょうか。素人が一次資料から正しく情報を活用することは難しいし、間違える可能性が高い。藤井さんもすごく試行錯誤されているんだなと伺っていて思いました。先ほどの熟覧届けの存在も、もう少し広く知られたらいいですよね。

副田: ある作品について「SHŪZŌ」で検索する時、関連する研究論文がそれこそPDFで並んでいたりしたら……

藤井&飯山: それは嬉しいです。

成相: APJのサイトでは「SHŪZŌ」と並行して、文献資料のデータベースも原則バイリンガルで整えています。現状では論評や批評の文献が中心になっているので、もう少し研究的な論考が入っていてもいいなと、聞いていて思いました。サイニィ(CiNii)などの学術研究のデータベースと繋がっていくのも面白いかもしれませんよね。

ビッグデータのレベルまでいけたら……

飯山: データベースに映像データを埋め込める可能性は?

成相: 技術的には可能でしょう。「SHŪZŌ」ではそのような計画はまだありませんが。

飯山: 映像作品は、美術館や映画館などの質が高い上映環境じゃないと経験できない形式の作品と、オンライン配信でも経験できる形式の作品と、作り手としては2種類あると思っています。作品の配信の可否は上映環境の設定が大きいのかなと想像するのですが、そのニュアンスはどうしたら見る人に伝わるのかな。逆に亡くなった作家に関しては著作権が切れているとはいえ誰がその条件を決めて公開の判断をするのかな……。

成相: 映像が埋め込まれれば、データベース自体が収蔵庫というか、バックアップとしての役割を持ちますね。そうすると同時に公開条件の設定や、管理者の倫理が問われることにもなる。

副田: ニュアンスを伝えるというのは、こういうデータベースが最も苦手とすることのひとつですよね。大御所も無名の作家もどれも等価に、ひとつのレコードになってしまう。見られなくなったものという話で言えば、被災地の物理的にアクセスできない館の資料だったり、火災等で焼失してしまった資料だったり、そういった災害時にデータベースがレスキュー台帳として使えるケースが実はあって。紙の目録そのものがなくなってしまうような状態になった時に、オンラインのデータベースがあると一応復元ができて、そこに何があったかわかるんです。

成相: これがあったら面白いかも、便利かも、というオプションの話をしてきましたけれど、そもそもの「SHŪZŌ」立ち上げにあたっての思想をここで改めてお伝えしますと、藤井さんがいう土台、飯山さんのいうところの糸口、まさにその部分を拡充しようとした取り組みなんです。
公開されているのにも関わらずアクセスできない情報が日本中にたくさんある。紙であっても全国美術館の目録を総覧できる場所というのは、実は国内にない。それをまとめようというのが「SHŪZŌ」の横断検索の根本思想です。まず、研究者でも困難が伴っていたアクセシビリティを高める。美術館の現場にいる我々でさえ、あるコレクションを知るためにいろんな美術館や図書館に足を運んでいます。その苦労は本当はなくていい。

副田: そもそも収蔵対象館はどんな基準で選んでいるんでしたっけ?

手錢: 声がけはまず、全国美術館会議の会員館から始めました。加えて日本博物館協会の美術系の会員館を参考に声がけを進めており、その中で応じてくれた館が掲載されています。小規模なミュージアムなどでも、情報提供いただけたら、こちらでデータベース化の作業をして公開します。

副田: なので、その時点で実はかなり選別は生じていますね。

藤井: 情報がバラバラと分断されている状況は、地方分権が進んでいるといった肯定的な見方もできます。これを全て繋ぐことによって、パワーを獲得するのはどこか。APJが国主導のプロジェクトであることをどう判断・評価するかは今時点では保留にしますが、たとえば自分の情報がどうなっているかを調べてみると、収蔵作品のほんの一部分しか掲載されていない。アーカイブというのは断片的だったり不完全だったりすると、それはそれで変。
コレクションした人たちの思想や視点が、全体像を見ることで浮かび上がってくるのがアーカイブの面白いところなので。数点、数十点とかじゃダメ。数十万点とかないと。これまで僕は各国のいろんなデータベースを使って調べ物をしてきましたが、「SHŪZŌ」はやっぱり規模があまりに小さい。

成相: まだ小さい?

藤井: はい。だからやるのだったら、もっと徹底的に。

飯山: 民間の財団や個人コレクションなども含めて、もっと可視化できたら。

成相: いいですね。

飯山: たとえば、コレクションされているのに展示されていない、活用されていないというケースもあります。博多港の引揚者の人たちが草の根で集めた資料は、市の収蔵になった後、公共施設に展示ブースが設けられたものの、長期間、展示替えされないままだったり。

藤井: そうですよね。表に出てこないものがある。でもその裏ではいろんな博物館が、いかに時の政府なり外圧なりによって虐げられてきた人々やその地域性を失っていったかということを立証するための資料をひっそりと集めていたりするわけです。そういったコレクションがビッグデータくらいのレベルまで集まれば、それまで見えていなかったものが網羅的に見えてくる。これは個人のコレクションについても言えます。東近美で開催中の大竹伸朗展(※現在は終了)がまさにそう。

副田一穂が話をしている写真副田一穂(愛知県美術館主任学芸員)

副田: 僕らが比較でよく挙げる例として、図書館の検索システムがあります。図書館はどんな小さな館でも似たようなデータベースを作っています。データベース自体はそれぞれの館の管理でありながら、全国で横断検索がすごく簡単にできる。

藤井: ネットワーク上で繋がっている形ですね。

副田: はい。それができるのは、本は同じものが複数存在するからです。美術品はユニークピースが基本だから、どうしてもシステムの作り方から違ってくる。でも美術史を研究する立場からすると、たとえば僕はミロの研究者ですけれども、ミロの作品を全国のどの美術館が持っているのかをポンと一発で検索できない世界ってどうなの? というのは当然ある。ただ藤井さんがおっしゃる通り、他方でデータベースに中央集権的な性質は確かにあります。

成相: 作品のサイズひとつとっても、美術館によって表記がセンチだったりミリだったり号だったりといった不統一があります。「SHŪZŌ」 はあくまで各館のデータを尊重してそのまま登録する方針を原則にしていますが、横断検索というシステムの思想自体が中央集権的であるのは当然だと思います。その上で、なおかつ地域のカラーが保てるかという話をしているわけですよね。それは可能かどうか。

副田: せっかく作品をめぐるいろんなデータを各館からもらったとしても、「SHŪZŌ」という規格化されたランチプレートに載るものしか入れられない。実は現地では豊かなフルコースだったかもしれないし、大事な何かを捨ててしまっているかもしれない。

飯山: 一見雑多にみえる情報も、集められる作品に関してはデータベースに入れておくと面白いかもしれませんよね。PDFが1枚紐づいているだけでも見え方が全然違ってきそうです。研究者も希望するところではないでしょうか。

副田: 各作品から所蔵館データベースへのリンクを貼ることはできるので、その館に対応するデータベースがあれば実現できます。ただ、実際には紙の資料しかない場合が多く、そうなるとなかなか追いつかない……

見えないものを、どう見せる?

成相: ひとつのデータベースに全てを集めるのではなく、ハブになればいいですよね。しかし、オフィシャルな情報から漏れたものや割愛された元の情報を探るうちに、なんというか、いわゆる陰謀論的に発展してしまう可能性はないでしょうか。デタラメな研究に引っ張られるなど。

藤井: アカデミズムの世界の中での陰謀論はないと思う。歴史的な決着がついていることを研究者は書くわけで、歴史修正主義に至ってはアカデミズムの世界ではあしらうだけです。ただ、ポストトゥルース時代において、調べればすぐにそれが簡単にひっくり返るのが分かるのにも関わらず、信じてしまってハマっていくアーティストは実際にいますけれど……それはもう仕方ないんじゃないですか。

飯山: 先ほどの熟覧の話もそうですが、資料の現物そのものを見るためには人とコンタクトをする必要がありますし、時間がかかります。情報と自分の間に何も介在するものがない時に、陰謀論なり誇大妄想なりが出てくる可能性はあるのかな、と私は思いました。

成相: 話を戻すと、ある情報をリッチにしようとする時点で、すでにバイアスがかかっているわけです。有名な人はどんどん有名になっていき、手をつけられない人はいつまで経っても隠れた情報のままだったり。どこかの情報量を増やそうとすることにも慎重でなければならない。その努力が格差を生んでしまうかもしれない。

藤井: 今の時代、西洋美術を中心とする植民地化した男性の視点でコレクションなりアーカイブなりを集められてきたという反省の上に立って、厳しく自制的に進めるのは、21世紀の美術では当たり前ではないでしょうか。コレクションもアーカイブも結局は人が造りだした物語なのだと思います。たとえば有名作家のコレクションが並んでいる時、物語が増大し、神話が強化されます。そういう物語の力が働くのは明らかです。

副田: そういう恣意性を自覚の上で、データベースの選び方や序列の考え方を、逆にしっかりと開示していくのが大前提です。陰謀論について言えば、図書館や書店はフラットにものを並べているように思われがちですが、本が動く、売れるという理由でヘイトスピーチを含むような本を面陳列したりコーナーを作ったりすることが、現実にある。これは明らかにキュレーションですが、そういった選別を完全に避けることは原理的に不可能なので、誰がどういう意図でそうしたのかを伝え続けることがまず大切なわけです。とりわけデータベースは形式上どうしてもフラット、中立的に見えてしまうけど、作家名の表記ひとつをとっても背後に各館でさまざまな議論の蓄積を経て出てきた読み方なので、バラバラだったりする。

手錢和加子が手の動きを交えながら話をしている写真手錢和加子(文化庁アートプラットフォーム事業事務局)

手錢: 美術館から提出された作家名は、美術館が採用する表記ルールを優先するため、統一はしていません。

成相: 表記のバラつきを維持すると、情報管理が不徹底に見えてしまうかもしれないし、不便だと指摘を受ける可能性もありますが。現段階での対応は、異なる表記の全パターンを登録して紐づけておくことです。そのバラつきの裏にある恣意性の歴史というのは面白い話だと思います。

開示し続けること、物語を紡ぐこと

飯山: コレクションとして選別されている時点で、すでに純然たる差が作品同士にはあります。すでにある差異を隠すのではなく、開示していくことで、作品の収蔵や展示についての政治学を議論できる場が生まれるのでは。差を可視化することによって、その価値がないとされてきた作品へのアクセスが生まれることもあると思います。

藤井: ひとつ気をつけたいのは、コレクション数や展覧会数などの数値にはマーケットのパワーがそのまま反映されているという点。アメリカやイギリスの美術界隈は、アートを数値化したパワーで表示します。展覧会数、アーティストが社会に与えるパワーが何パーセントで、そのアーティストは何位か?みたいな序列化がダイナミズムを生んでいく。いろいろと出遅れている日本の美術界は、その副作用を検証しながら進むことができるのか。

成相: コレクションのデータベースである以上、飯山さんのおっしゃる「選別」の跡は残るわけですが、それこそデータ量の充実によって、特定の価値づけに偏らない情報を提供できるはずです。それをパワーとして利用するかどうかは、使用者次第。「SHŪZŌ」そのものにパワーを持つ意志はもともとないわけで。

副田: うち(愛知県美術館)の話ですけど、「SHŪZŌ」経由でこれまでほぼ誰も注目してこなかった作家や作品の画像利用のオファーが来ました。効果としては実際にあります。

藤井: アーカイブが批評性を持つこともありますから。コレクションがたくさんある著名なアーティストだけを恣意的にピックアップし、この人たちが強くてイケてるんですよという物語を作ると同時に、別の物語も作ることができます。

成相: そうですね。美術館の思っていなかったつながりを提案したり、異議を唱えたりすることだってできる。使える素材があるんだと広く認識していただけたら嬉しいです。

副田: これまで光が当たっていなかった物語が、このデータベースからたくさん出てくるように工夫したいですね。せっかくこれだけの情報が集まってきている。僕らが学生だった時代からすると夢のようです。複数の物語をうまく紡げるような動線を作り、それをどう活用するのか。引き続きアーティストの皆様のご意見もいただきながら進化していけたらいいなと思います。

対談参加者5名が横並びに立ってこちらをみている写真。ガラス張りの部屋で、窓に沿って椅子が並んでいる


参加者プロフィール(敬称略、五十音順)

飯山由貴:美術家
神奈川県生まれ。過去の記録物や人への取材を手がかりに、社会と個人の影響関係に関心を持ちながら、映像やインスタレーションを制作。個展「あなたの本当の家を探しにいく」(2022年、東京都人権プラザ)では、精神障害のある妹と共に制作した映像作品などを展示。附帯事業として上映予定だった映像作品《In-Mates》(2021年)は東京都人権部の介入で禁止となり、現在も署名活動などを通して上映機会を探っている。最新作は森美術館「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」でDVをテーマに展示した映像《家父長制を食べる》(2022年)。ウェブサイト

副田一穂:愛知県美術館主任学芸員
福岡県生まれ。2008年より愛知県美術館学芸員。あいちトリエンナーレ2010‒16、国際芸術祭あいち2022でアシスタント・キュレーターを務める。専門は近現代美術。主な企画に「芸術植物園」(2015)、「アイチアートクロニクル1919‒2019」(2019年)、「ミロ展──日本を夢みて」(2022年)など。論文に「(反)バルセロナの画家、ジュアン・ミロ」、「多肉植物と写真──下郷羊雄の可食的オブジェについて」など。

成相肇:東京国立近代美術館美術課主任研究員
島根県生まれ。府中市美術館学芸員、東京ステーションギャラリー学芸員を経て、2021年より現職。戦後日本のアヴァンギャルド芸術を中心に調査研究を行う。主な企画展に「石子順造的世界─美術発・マンガ経由・キッチュ行」(2011‒12 年、府中市美術館)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」(2014 年、東京ステーションギャラリー)、「パロディ、二重の声─日本の 1970 年代前後左右」(2017 年、同)など。 日本現代アート委員会委員も務める。

藤井光:美術家
東京都生まれ。様々な国や地域固有の文化や歴史を、綿密なリサーチやフィールドワークを通じて検証し、同時代の社会課題に応答する作品を、主に映像インスタレーションとして制作。近作は、米軍が東京都美術館で開催した日本の戦争絵画展を再現した《日本の戦争美術 1946》(2022年)、福島からの避難民に対する不条理な差別を構造化させた《あかい線に分けられたクラス》(2021年)など。森美術館開館20周年記念展 「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」(会期2023年4月19日から)に出展する。ウェブサイト

手錢和加子:文化庁アートプラットフォーム事業事務局 全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ」担当
現代美術画廊での勤務を経て2008年株式会社TEZEN設立。2018年より代表取締役。アートプロジェクトの事業運営の他、企業・個人の美術コレクションの作品管理システム構築と運用に携わる。 文化庁アートプラットフォーム事業では2019年8月より全国美術館収蔵品サーチ「SHŪZŌ」を担当するとともに、日本現代美術展調査と日本の画廊調査 1945年以降の推進を担う。

写真:細倉真弓
編集・文:合六美和