- 作家名
- 刑部人
- OSAKABE Jin (index name)
- Osakabe Jin (display name)
- 刑部人 (Japanese display name)
- おさかべ じん (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1906-05-05
- 生地/結成地
- 栃木県
- 没年月日/解散年月日
- 1978-03-08
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 2021
- 東京文化財研究所「刑部人」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2021-12-10. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9670.html
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「刑部人」『日本美術年鑑』昭和54年版(282-285頁)日展会員、新世紀美術協会会員の洋画家、刑部人は、3月8日午前0時18分、腎不全のため東京・飯田橋の日本医大附属第一病院で死去した。享年71。刑部人は昭和39年(1906)栃木県に生まれ、小学時代に父の転任にともなって上京、栃木在住時から絵画に関心をいだき、大正13年3月東京府立第1中学校を卒業した。小学校時代から川端竜子、鶴田吾郎などの指導をうけたが、中学卒業の年に東京美術学校西洋画科に入学し、和...
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栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。1929年に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に文展無鑑査で出品となり、1946年、1947年には出品作品が日展特選となる。 刑部は川端龍子に日本画を学び、東京美術学校の西洋画科の在学中に帝展に初入選した。画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。 作風について悩んだ果てにたどり着いたのは、時流に惑わされず本来の写実中心の自分の道に帰ることだった。先輩洋画家の金山平三との数々の写生旅行を経て、刑部は絵筆により細部を精緻に組み立てていく表現を超え、ペインティングナイフのバネの反動を利用して生乾きの絵具を重ねていくアクション・ペインティング風の独特の画風を生み出す。 刑部がアトリエを構えた下落合は当時「落合文化村」と呼ばれ、佐伯祐三ほか多くの画家や小説家が住んでいた。1941年には、刑部邸の隣の土地に林芙美子が夫の緑敏と居を構えた(現・林芙美子記念館)。画家だった緑敏は薔薇づくりを趣味としており、刑部は隣家から毎年季節になると届く薔薇を好んで描いた。梅原龍三郎、中川一政、朝井閑右衛門等も緑敏の薔薇を描いたが、画家たちが巻きのやわらかいつぼみや、虫の食った葉を好むので、緑敏はわざと自然のままに花をつくったという。
- 2023-02-20