- 作家名
- 浜口陽三
- HAMAGUCHI Yōzō (index name)
- Hamaguchi Yōzō (display name)
- 浜口陽三 (Japanese display name)
- はまぐち ようぞう (transliterated hiragana)
- 濱口陽三
- ZOTI
- 生年月日/結成年月日
- 1909-04-05
- 生地/結成地
- 和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)
- 没年月日/解散年月日
- 2000-12-25
- 没地/解散地
- 東京都港区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 版画
作家解説
20世紀後半に国際的に活躍した銅版画家である。パリにて銅版画の技法、カラーメゾチントを開拓し、その技法を用いた静謐な作品は国際版画コンクールで受賞を重ね、版画の巨匠と称された。
1909年4月5日、和歌山県広村(現・有田郡広川町)に生まれる。父は1645年から続くヤマサ醤油株式会社の十代目社長、濱口儀兵衛[ぎへえ]である。彼は南画の収集家として知られ、小室翠雲[すいうん]に習って自らも南画を描いた。遡れば五代目濱口儀兵衛(浜口灌圃[かんぽ])は江戸時代後期に活躍した南画家である。
1914年、5歳の時に一家で千葉県銚子へ移住。絵の好きだった浜口は、1921年12歳の時に、趣味で油彩画を描く叔母、東久世小六[ひがしくぜころく](東久世秀雄男爵夫人)の紹介で片岡銀蔵の手ほどきを受け初めて油彩画を描いた。翌1922年に上京し、立教中学校に入学。その後、私立京華中学校に転入学し、穴山義平に絵画の授業を受ける。三男だった浜口は経営の道には進まず、小林萬吾や建畠大夢[たてはたたいむ]に学び、1928年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科彫塑部に入学した。しかし学校になじめず、梅原龍三郎の助言により1930年に退学、同年3月末にフランスへ出航した。
国際芸術都市フランスでの浜口は、アカデミー・グランド・ショミエールやアカデミー・コラロッシュに一時期通った程度で、特定の師につくことはなく、パリや南仏を自由に移動し、多くの芸術と人々に接しながら、芸術家としての感性を育み、制作に励んだ。後年、当時好きだった画家や様式として、シャルダン、スーラ、ドガ、ボナール、バウハウスを挙げている。1934年からパリのサロンに3度、ZOTIの名前で油彩画を出品したが、次第に大画面の油彩画に対する興味を失い、小品や水彩画を描くようになる。
1936年から翌年にかけて、ハイチ、キューバ、アメリカを旅行し、この頃に知り合ったアメリカの詩人、E. E. カミングスや、シュルレアリスムの画家ジョルジュ・マルキンとは、彼らの生涯を通じて交流を続けた。1937年には自由美術家協会の結成に名を連ねている。
1938年12月、初めての個展をパリのアンドレ・シュレール 画廊(パリ・8区)で開催し、この2年間で制作した油彩画、水彩画、ドライポイント《猫》(1937年、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、東京)などを発表。いよいよ画家として歩みだそうとした矢先、1939年に第二次世界大戦が勃発し、11月に滞在先の南仏から船に乗りやむなく帰国。それまで制作した作品のほとんどを失った。
日本では京都に一時期滞在し白倉嘉入[しらくらかにゅう]に水墨画を学ぶこともあったが、1941年に仏印インドシナに通訳として派遣され、そのまま現地でマラリアにかかり、終戦を迎えた。帰国後、1947年から2年ほどは伊豆の蓮台寺温泉・新湯旅館に逗留。1949年秋から東京・代々木の森芳雄邸に部屋を借り、翌年の夏までには本格的に銅版画に取り組み始めた。日本にまだ銅版画が普及していない時期であり、アメリカにいたカミングスやマルキンに道具類を送ってもらうこともあった。1951年に銅版画による個展を銀座のフォルム画廊で初めて開催し、ドライポイントやメゾチントによる作品を発表。上目黒八丁目(現・目黒区大橋)に自宅兼アトリエを構え、制作環境を整えた。さらに銅版画に手ごたえをつかんだ浜口は、1953年に養清堂画廊(東京・銀座)で個展を開いた後、再び芸術の中心地であるパリに旅立った。
1953年12月、パリに着いた最初の夜、浜口はモンパルナスのカフェ、クポールにて、フェルナンド・バレエなど昔の知り合いと邂逅し、彼女たちは、隣席に居合わせた画商のハインツ・ベルクグリューンに浜口を紹介した。ベルクグリューンに見せるためそれまでより大きいサイズの作品、《スペイン風油入れ》(1954年、国立国際美術館、大阪ほか)を急いで作って見せたところ気に入られ、画廊との付き合いが始まった。遅くともその夏には色彩版画に着手し、二版刷りの《モーヴ》や《うさぎ》(共に1954年、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションほか)などを経て、1955年の《西瓜》(和歌山県立近代美術館ほか)に至ってカラーメゾチントが完成する。翌年の《パリの屋根》(1956年、東京国立近代美術館、国立国際美術館、和歌山県立近代美術館、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、ニューヨーク近代美術館、スミソニアン機構・国立アジア美術館ほか)は、戦前にモンマルトルのアトリエから眺めた光景の「無意識的な印象」(『浜口陽三の世界』ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、2023年)を表現し、浜口の代表作となった。
微光を宿す柔らかな闇に、さくらんぼやぶどう、毛糸など、身近な静物を描く作風は、技法の完成と共にほぼ固まった。1957年に東京国際版画ビエンナーレにて東京国立近代美術館賞、サンパウロ・ビエンナーレにて版画大賞を受賞し、翌1958年にはルガノ国際版画ビエンナーレで9人賞、秋にパリのベルクグリューン画廊で個展を開催した。新しい美術の潮流が渦巻くパリにあって、浜口の作品は好評を博し、展覧会評には、静謐、瞑想、詩的などの言葉が並んだ。1960年にはヴェネツィア・ビエンナーレに日本人の一人として参加、その後もリュブリアナ、クラコウなど、名だたる国際版画コンクールで受賞を果たした。
印刷技術としてのメゾチントによる多色刷りは、17世紀から18世紀、ジャック・クリストフ・ル・ルブロンが考案し、医学書の解剖図などに使用したが、完全な色分解の確立には至らず、彼の死後に廃れてしまった(註1)。20世紀に入ってビロードのようなメゾチントの黒の魅力を複数の芸術家が再発見し、浜口はさらにそのモノクロだったメゾチント技法を色彩の柔らかなマチエールの表現へと展開した。黄、赤、青、黒の四版から生まれる澄んだ色調は、作品に神秘的な深みを与えている。なお浜口は黒一色の作品も探求し続けた。スタンリー・ウィリアム・ヘイターの『版画について』(オックスフォード大学出版局、1962年)(註2)には、モノクロの《ぶどう》(1956年、国立国際美術館ほか)が掲載されている。
彫塑、油彩、水彩、南画など様々な試行錯誤を経て、銅版画に辿り着いた浜口は、銅版画でしか成しえない芸術を求め続けた。彼の創作への姿勢は次のような著述にうかがえる。「版画が絵画の複製や挿画を主としていた時代には、それに伴う印刷技術は単純であったが、版画がそういうことから独立して一個の芸術にまで育った今日では新しい工夫や発見がなされ、刻版や印刷の技法にもあらゆる自由が許されるべきで、これが正式、あれは邪道などというようなことは通用しない。既存の技法や技術に拘泥していては版画家でも油絵家でも又彫刻家でも、現代の幅の広い芸術の世界から遠ざけられていく」(『芸術新潮』第10巻第5号、1959年5月)。
浜口も牽引した美術界でのメゾチント復興は60年代、70年代に最盛期を迎え、版画家を志す芸術家を国内外に生み出した(註3)。1974年の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第15版(シカゴ:ブリタニカ)のメゾチントの項目には「メゾチントの技法を用いている20世紀半ばのもっとも著名な、そしてこの道のほとんど唯一の主導者である浜口陽三は、パリ在住の日本人作家だが、カラー・メゾチントという版画技法を開拓した」と紹介されている。
1981年、浜口はパリからサンフランシスコに移り住む。1984年のサラエボ冬季オリンピックのポスターには《さくらんぼと青い鉢》(1976年、国立国際美術館ほか)が採用された。アメリカではヴォーパル画廊(サンフランシスコ)で発表し、1996年に日本に帰国。1998年に東京に個人美術館ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションが開館し、2000年12月25日に死去した際にはこの美術館にて葬儀が行われた。現在に至るまで、浜口陽三の作品は、毎年、国内外の展覧会に展示されている。
(神林 菜穂子)(掲載日:2023-09-11)
註1
アド・ステインマン「カラーメゾチントの歴史 色彩印刷そして芸術の創作へ」『Time of the Mezzotint: 星より遠い色』ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、2014年10月、6–9頁。
註2
Hayter, Stanley William. About Prints. London: Oxford University Press, 1962.
註3
ステインマン、前掲書。
- 1951
- 浜口陽三個展, フォルム画廊,東京銀座, 1951年.
- 1958
- Hamaguchi Manière Noire, Berggruen & Cie, 1958.
- 1960
- 第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ 国際美術展 , 日本館, ヴェネツィア, 1960年.
- 1980
- 浜口陽三名作展, 池田20世紀美術館, 1980–1981年.
- 1985
- 浜口陽三展: 静謐なときを刻むメゾチントの巨匠, 有楽町西武アート・フォーラム, 国立国際美術館, 1985年.
- 1990
- 浜口陽三展: 銅版画の巨匠, 東京都庭園美術館, 1990年.
- 2002
- 浜口陽三展: 20世紀版画の巨匠, 国立国際美術館, 千葉市美術館, 足利市立美術館, 都城市立美術館, 熊本県立美術館・本館, 2002–2003年.
- 2009
- 浜口陽三生誕100年記念銅版画大賞展, ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2009年.
- 2009
- 浜口陽三: 生誕100年記念展: 未公開の油彩作品群と、きらめく銅版画, ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2009年.
- 2019
- 19e Biennale Internationale de la Gravure de Sarcelles, Village de la Gravure, Sarcelles, France, 2019.
- 国立国際美術館, 大阪
- 和歌山県立近代美術館
- 武蔵野市立吉祥寺美術館, 東京
- スミソニアン協会国立アジア美術館, ワシントンD.C.
- ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 東京
- 1958
- Hamaguchi, Manière Noire. [exh. cat.], Paris: Berggruen & Cie, 1958 (Venue: Berggruen & Cie).
- 2000
- 三木哲夫編『浜口陽三全版画作品集』国立国際美術館監修. 東京: 中央公論美術出版, 2000年 [カタログ・レゾネ].
- 2002
- 浜口陽三『パリと私: 浜口陽三著述集』三木哲夫編. 東京: 玲風書房, 2002年 [自筆文献].
- 2002
- 国立国際美術館, 日本経済新聞社編『浜口陽三展: 20世紀版画の巨匠』クリストファー・スティヴンズ, 松谷誠子翻訳. 東京: 日本経済新聞社, 2002年 (会場: 国立国際美術館, 千葉市美術館, 足利市立美術館, 都城市立美術館, 熊本県立美術館).
- 2009
- 和歌山県立近代美術館編『浜口陽三展: 生誕100年記念』[和歌山]: 和歌山県立近代美術館, 2009年 (会場: 和歌山県立近代美術館).
- 2009
- ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション編『浜口陽三: 生誕100年記念展: 未公開の油彩作品群と, きらめく銅版画』東京: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2009年 (会場: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション).
- 2012
- 柏倉康夫編『浜口陽三の世界』東京: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2012年.
- 2014
- ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション編『Time of the Mezzotint: 星より遠い色: 浜口陽三と国際メゾチント展: 2014年秋の企画展』東京: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2014年 (会場: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション).
- 2019
- 東京文化財研究所「浜口陽三」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28209.html
- 2022
- 神林菜穂子編『Yozo Hamaguchi』東京: ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション, 2022年.
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「浜口陽三」『日本美術年鑑』平成13年版(245頁)銅版画家で、日本版画協会名誉会員の浜口陽三は、12月25日午後5時41分、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年91。1909(明治43)年4月5日、和歌山県有田郡広村に生まれる。父浜口儀兵衛は、ヤマサ醤油十代目社長。幼少時、父が家業の醤油醸造業に専念するため、一家で千葉県銚子市に移る。上京して中学に通い、1928(昭和3)年中学を卒業、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。30年同学校を中退し、渡...
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浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。葉巻の愛好家。同じく版画家の南桂子は妻。
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- 2024-03-08