A1728

並河靖之

| 1845-10-01(弘化2年9月1日) | 1927-05-24

NAMIKAWA Yasuyuki

| 1845-10-01(弘化2年9月1日) | 1927-05-24

作家名
  • 並河靖之
  • NAMIKAWA Yasuyuki (index name)
  • Namikawa Yasuyuki (display name)
  • 並河靖之 (Japanese display name)
  • なみかわ やすゆき (transliterated hiragana)
  • 高岡留蔵 (birth name)
  • 並河政次郎靖之
生年月日/結成年月日
1845-10-01(弘化2年9月1日)
生地/結成地
京都柳馬場御池北入町
没年月日/解散年月日
1927-05-24
性別
男性
活動領域
  • 工芸

作家解説

1845(弘化2)年9月1日、京都の柳馬場御池にて、高岡家の三男として生まれる。幼名は留蔵[とめぞう]といい、1855(安政2)年に並河家の養子となる。並河家は天台宗青蓮院門跡[てんだいしゅうしょうれんいんもんぜき](以下、青蓮院)の坊官の家柄で、養父・靖全[せいぜん]は御所の絵所の恒枝[つねき]家の人であったが、養母・栄の父、並河靖寛の祖先・永原典膳[ながはらてんぜん]が高岡家の人で、やはり青蓮院の家臣を過去に務めている。靖全の急逝により、靖之は並河家の家督を継ぎ、青蓮院の近侍を務め、名は政次郎靖之[せいじろうやすゆき](以下、靖之)となる。また、実父・九郎左衛門[くろうざえもん]は川越藩京都留守居役京都詰め役人を務めた川越藩士で、藩の情報集、風説留[ふうせつどめ]である『聞集録[もんしゅうろく]』(全108冊)の編集も担ったことが、田中正弘「『聞集録』の編者と幕末の情報網」(『東京大学史料編纂所研究紀要』10号、2000年)にて明らかとなっている。高岡家はそもそも近江栗太郡六地蔵梅木(現・滋賀県栗東市辺り)の土豪で、川越藩が所有した江州近江国の地領を預かった武州川越城主松平大和守家臣の家柄で、そのため京都との二重生活をしており、地元は長男が守り、次男と靖之は父と京都で育った。 靖之が仕えた当時、青蓮院の門主は、青蓮院宮入道尊融親王[しょうれんいんのみやにゅうどうそんゆうしんのう]といい伏見宮邦家親王[ふしみのみやくにいえしんのう]第四子で、のちに還俗、宮家に復し久邇宮[くにのみや]を賜った朝彦親王[あさひこしんのう](1824–1891)である。天台座主[てんだいざす]であったが、安政の大獄の咎により1859(安政6)年にはその立場を追われ相国寺内の桂芳軒に幽閉となり、1862年に天台座主に還るも翌年に還俗が命じられ、宮号は中川宮、名が朝彦となる。1864(元治1)年には宮号が賀陽宮[かやのみや]となる。しかし、1868(慶応4)年、文久三年八月政変(1863年)の咎により、親王剥奪と安芸広島藩に蟄居となる。京都に戻り伏見宮に復籍が叶うのは、明治維新後の1870(明治3)年の年末であった。東上の命により1872(明治5)年2月から7月まで東京に滞在し、1875(明治8)年5月に久邇宮の宮号を賜り、7月に伊勢神宮祭主となる(註1)。 青蓮院の近侍となって以降、靖之は門主の側近として仕え、その後も朝彦親王に従い宮家に奉職し家従となり、幕末から維新後の動乱をともにしている。この間、靖之は結婚し一女を授かるが流行病で一時に妻子を失い、1870年に養母・栄の姪にあたる梶子と再婚する。朝彦親王の窮状は並河家の暮らし向きにも影響し、靖之は経済的困難から士族の商法で、兎や鶏を飼い、団扇の骨削り、洗箒づくりなど副業を試みており、その折に同僚・桐村茂三郎[きりむらもさぶろう]から名古屋で盛んとなっていた七宝業による起業の誘いを受け着手する。2人は資金を出し合い、並河家の座敷を工場にして始めるが、道具や材料、製作方法の知識にも乏しい素人ばかりで試行錯誤重ね、1873(明治6)年末に《桐鳳凰文食籠》(並河靖之七宝記念館、京都)を完成させた。本格的な事業化をはかる途上で、桐村が職工を引き連れ独立したため、靖之は宮家との兼業で、残った職工とともに細々と七宝製作をする。昼間の勤めの間にも、自分の傍らに小さな焜炉を置き、釉薬の色を調合し、銅板にのせ土器(直接火が当たらないようにする素焼きの焼物)を被せて試し焼きを繰り返し、帰宅後も根気よく七宝技法の探求に励んだ。 1875(明治8)年の第4回京都博覧会へ花瓶を初出品し、有効賞銅牌となり初受賞を果たし、翌1876(明治9)年には海外の万国博覧会にも出品し、アメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会にて銅賞となる。また、同年には「並河靖之ハ玻璃透徹及茶金石挿入ノ製法ヲ発明ス」(「京都七寶沿革」『京都府著名物産調』京都府内務部第四課、1900年)と、独自の七宝釉薬に成果を出している。続く1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会では《舞楽図花活》(現・《七宝舞楽図花瓶》、皇居三の丸尚蔵館、東京)が鳳紋褒章牌となる。靖之の七宝業への着手は、経済的不安を払拭するための生業の確保が目的で、この間も兼業で行っていたが、京都府の博覧会品評人も務め、さらに朝彦親王の王子多田宮(のちの梨本宮守正王)と王女絢姫の御教育係となり、2人を自邸で養育している。翌1878(明治11)年には東京大学在学中の高松豊吉(1852–1937)が卒業論文にて釉薬を研究するため、京都に靖之を訪ね七宝釉薬の調査を行い、『On Japanese Pigments (日本絵の具の研究)』(1878年)が英文で刊行されている。また、この年の第3回パリ万国博覧会では銀賞となる。横浜の外国商社・ストロン商会から商談も入るなど、靖之は七宝業での独立を決意し、同年末に久邇宮家の家従職を辞して、並河七宝の「工場」と「店」を創業する。独立後には京都府勧業御用掛となる。 1881(明治14)年、前年に開校した京都府画学校(現・京都市立芸術大学)御用掛となるが、一方で取引を続けてきたストロン商会との契約破棄による事業を揺るがす事態が生じる。解約の理由は、技術が拙く、売れない、買い手がないというものであった。当時、すでに工場には職工を40人余りかかえ、七宝の焼き損じが重なり、借金もする窮状となった。失意のどん底の靖之に対し、ストロン商会は第2回内国勧業博覧会の見物を勧め費用を援助しており、この旅が大きな転機となった。会場で目にした数々の七宝に、自分の拙さを痛感し、葛藤の末「之が七宝の終りか、今一つ花を咲かすかの思案で」(黒田譲[天外]『名家歴訪録上編』1899年)と、全ての職工に暇を出し、新たに雇った5人程で再出発をする。 靖之の再起に掛ける意気込みは『都の魁』(石田有年編、京都: 石田戈次郎、1883年、46頁)にての自店の紹介に受賞歴だけを掲載した内容からもうかがえ、その後も着々と国内外の博覧会で受賞を重ねていく。1886(明治19)年には京都色染織物刺繡纈絞共進会[きょうといろそめおりものぬいかのこきょうしんかい]の受賞者に授与されたメダル製作も行っており、髙島屋の2代目飯田新七が授与したメダル《一等賞(龍紋七寶牌)》(髙島屋史料館、大阪)は並河製である。次第に靖之は事業を目覚ましく展開させ、飛躍を遂げていく。主なものでも1885(明治18)年ニュルンベルク金工万国博覧会《七宝花瓶》(ウィーン応用美術博物館、ウィーン)、1889(明治22)年第4回パリ万博(金賞牌)、1893(明治26)年シカゴ・コロンブス博覧会《七宝花蝶文瓶》(工芸部にて優等賞牌・銅、東京国立博物館)、《七宝菊唐草文花瓶》(東京国立博物館)、1900(明治33)年第5回パリ万博《七宝四季花鳥図花瓶》(金賞牌、皇居三の丸尚蔵館)である。 この間、1889(明治22)年から1894(明治27)年にかけ、庭園や建物など邸内の改修に着手し、「並川氏新宅落成」(『日出新聞』1894年11月16日付)にて、披露の様子が報じられる。1893(明治26)年5月には実業の功績により緑綬褒章を賜り、1896(明治29)年6月に帝室技芸員を拝命する。社会的活動も増え、日本美術協会会員(1889年)、京都美術協会評議員・第二部理事(1890年)、第4回内国勧業博覧会審査官(1895年)、大日本武徳会創設に参与(1895年、1898年に常議員)、新古美術品展覧会審査委員(1896年)、宮内省調度局よりの任命で巴里大博覧会出品監査委員(1899年)、全国生産品博覧会出品奨励委員審査(1901年)などを務める。黒田天外は帝室技芸員拝命後に靖之から聞き取った話を『名家歴訪録上編』に綴ったおり、当時の靖之の心情を伝えている。1903(明治36)年、靖之と梶子夫妻は縁戚の杉本家の娘・徳子を並河家の養女として迎える。 明治30年代後半からは、東宮御所(現・国宝迎賓館赤坂離宮、国宝)の七宝製作に関わる。しかし、現存する《七宝額絵》は、濤川惣助[なみかわそうすけ](1847–1910年)が七宝製作、渡辺省亭(1852–1918年)が下絵を担当したことが明らかとなっている。当初は靖之と下絵を荒木寛畝(1831–1915年)が担当した製作も進行していたが、1906(明治39)年9月に、「装飾上変更ノ必要ヲ生ジ候ニ」(註2)を理由に変更となった。その一方で、同年靖之は賞勲局から勲章製造を拝命し、東京(下谷区根岸)に並河勲章製造株式会社工場(以下、勲章工場)を開設し、大正期の並河七宝を支える柱となり、1923(大正12)年7月に京都の工場が解散し、1927(昭和2)年に靖之が亡くなった後の1929(昭和4)年まで存続した。勲章工場の敷地には、邸宅と作業場を備えた2階建ての建物や窯場、機械場のほか池庭もあり、「並河家文書」(註3)からは、1909(明治42)年頃に靖之は、毎月10日ほど東京に滞在していたことがわかる。京都では並河七宝の製作を担う創作の場である「工場」と、販売を行う交流の場となる「店」が営まれて、東京での「勲章工場」がこれに加わった。並河七宝には技量ある職工が育つが、なかでも中原哲泉(1863–1942)は主に下画を担当し、製作のすべての工程に精通し工場長を務め、靖之が「之が私の我ものと云ふ画師です」(黒田譲『名家歴訪録上編』)と評した画工であった。中原をはじめとした少数精鋭のすぐれた職工が「工場」を支えていた。現存する七宝製作に関わる各種の下画や七宝釉薬の色見本などの豊富な資料からも、それに携わった職工たちの技量の高さがうかがえる。「工場」や「店」は、創業当初は邸内の座敷などを利用しており、1890(明治23)年頃から新築した蔵を「店」に使い、1894(明治27)年に邸宅を表屋造[おもてやづくり]に改修後は「店の間」がそれを担い、特別な客は主屋の座敷に通している。職住一体となった邸内の敷地には、七宝の琢磨のために琵琶湖疏水から導水した水を、池の水にも利用した流れのある池庭があり、心地よい水音とも相まって工場や主屋の座敷からの景となっていた。このほか、「店」ではホテルや商品陳列場、外国商館、後年には東京の勲章工場や尾張や東京の七宝業関係者らとの取引ほか、事業に関する営業や調達なども行っていた。 並河七宝に魅了された大勢の外国人が靖之のもとを訪れており、それを伝える『芳名帳』(註4)が遺されている。また、エリザ・ルーアマー・シッドモアやラドヤード・キプリング、ハーバート・ジョージ・ポンティングほか、外国人による著作物に並河七宝を訪問した記述があり、彼らの目と体験を通して綴られた内容からは、当時の情景が浮かび上がり、明治の七宝研究においても重要な資料となっている。さらに、靖之の七宝業を伝える記述の多くが、並河邸の庭園や工場など、その製作環境に着目している。特に庭園は1894(明治27)年に若かりし七代目小川治兵衛(1860–1933)が手掛けた初期の作庭であった。世俗を離れた仙境を思わる雰囲気が漂い、大いに刺激的で興味深い庭園であったという感想が各所で述べられており、画家のウォルター・ティンデールは庭園を水彩画で描いている。このほかにも『京都府写真帖』(京都府庁、1908年)や湯本文彦編纂『京華林泉帖』(京都府庁、1909年)などがある。靖之が博覧会での栄誉に感謝して「巴里庭」[ぱりにわ]と呼んだ庭園は、来客へのもてなしであったことはいうまでもなく、靖之ら家族と邸内で働く職工たちの憩いとなった。靖之が求めた上質な製作空間は、邸宅内で行う七宝業においては水の利用とともに、製作する上で不可欠となる材料と等しく重要な要素であった。 1910(明治43)年の日英博覧会が最後の海外博への出品となり、以降、国内博への出品も少なくなる。1911(明治44)年、京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校(ともに現・京都市立芸術大学)商議委員、1915(大正4)年には大正天皇の即位大礼に際し、賓客の宿舎として自邸を提供しており、その際の様子は恒次夏三郎編『御大禮記念寫眞帖』(大典記念出版協会、1916年)に収録されている。1918(大正7)年、靖之は京都郊外の山科に別荘・恋鯉荘[れんりそう]を営み、愛好する鯉を池に300匹ほども放ち、本宅から自動車で毎日通って眺め楽しむようになり、ここでも多くの来訪者をもてなしている。実質的な隠居生活が始まり、東京の勲章工場は継続するが、京都の並河七宝の「工場」と「店」は1923(大正12)年7月に解散した。 1927(昭和2)年5月24日、靖之は動脈硬化により83歳で永眠し、訃報を伝えた新聞記事は「並河靖之氏―勲章の製造家」(『京都日出新聞』1927年5月26日付夕刊)であった。久邇宮家をはじめ朝彦親王の王子女に縁ある宮家からの供物が並ぶ葬儀の写真が残る。追賜、従七位、戒名は透達院靖之日歡大居士。東京の勲章工場は娘・徳子の夫である婿の茂樹が家業として継承するが1929年閉じられた。茂樹は医師で、並河七宝を営んだ邸宅の向かい側で並河医院を開業しており、以降の代々は医者となり、靖之および並河七宝の所産は並河家によって守られ、邸宅は並河家の個人宅として継承されてきた。靖之の孫・靖と曾孫・正晃によって、2003年に並河靖之有線七宝記念財団が設立され、並河家が継承してきた並河七宝および七宝業に関わる資料類、邸宅が寄付され、並河靖之七宝記念館が開館した。尚、同館の館蔵品の一部は2008年に国登録有形文化財「並河靖之七宝資料(七宝・下図・道具) 千六百六十二点」(登録番号工第二号)に登録されている。 (武藤 夕佳里)(掲載日:2023-10-02) 註1 皇學館館史編纂室『増補 朝彦親王景仰録』皇學館、2011年。徳田武『朝彦親王伝―維新史を動かした皇魁』勉誠出版、2011年。 註2 細野正信「迎賓館食堂七宝額下絵を中心に」『宮内省内匠寮旧蔵 明治花鳥下絵集成』京都書院、1981年。 註3 並河家に遺されてきた並河靖之に関わる史資料類の総称。並河靖之七宝記念館蔵。 註4 同上内にある『Namikawa Guest List』(1892–1903年)、『Namikawa Visitors Book』(1904–1930年)の2冊で、これを『芳名帳』と総称している。

1997
海を渡った明治の美術: 再見! 1893年シカゴ・コロンブス世界博覧会, 東京国立博物館, 1997年.
2002
明治天皇と明治美術の名宝: 明治天皇御生誕百五十年記念展, 明治神宮文化館, 2002年.
2004
世紀の祭典万国博覧会の美術: 2005年日本国際博覧会開催記念展: パリ・ウィーン・シカゴ万博に見る東西の名品, 東京国立博物館, 大阪市立美術館, 名古屋市博物館, 2004–2005年.
2005
並河靖之の技, 七宝町七宝焼アートヴィレッジ, 2005年.
2008
帝室技芸員と一九〇〇年パリ万国博覧会, 宮内庁三の丸尚蔵館, 2008.
2009
皇室の名宝: 日本美の華: 御即位二十年記念特別展, 東京国立博物館, 2009年.
2013
皇室の名品: 近代日本美術の粋, 京都国立近代美術館, 2013–2014年.
2016
美術工芸の半世紀: 明治の万国博覧会展Ⅱ: さらなる挑戦, 久米美術館, 2016年.
2017
並河靖之七宝: 明治七宝の誘惑 : 透明な黒の感性, 東京都庭園美術館, 伊丹市立美術館, パラミタミュージアム, 2017年.
2017
Polished to Perfection: Japanese Cloisonné from The Collection of Donald K. Gerber and Sueann E. Sherry, ロサンゼルス・カウンティ美術館, 2017–2018年.
2018
明治150年展: 明治の日本画と工芸, 京都国立近代美術館, 2018年.
2019
Seven Treasures A Trove of Japanese Cloisonné, フランクフルト工芸美術館 [Museum Angewandte Kunst], 2019年.
2022
並河靖之と尾張七宝: 京都七宝と尾張七宝の出会いと発展, あま市七宝焼アートヴィレッジ, 2022年.
2022
並河靖之の雅な技: 世界を魅了した明治の京都七宝, 茨城県天心記念五浦美術館, 2022年.
2022
日本美術をひも解く: 皇室、美の玉手箱, 東京藝術大学大学美術館, 2022年.
2022
綺羅めく京の明治美術: 世界が驚いた帝室技芸員の神業: 特別展, 京都市京セラ美術館, 2022年.

  • 並河靖之七宝記念館, 京都
  • 京都国立近代美術館
  • あま市七宝焼アートヴィレッジ, 愛知県
  • 清水三年坂美術館, 京都
  • 東京国立博物館
  • 三の丸尚蔵館, 東京
  • 泉屋博古館, 京都
  • ヴィクトリア&アルバート博物館, ロンドン
  • ロサンゼルス・カウンティ美術館
  • アシュモリアン博物館, オックスフォード

1979
鈴木規夫, 榊原悟『日本の七宝』京都: マリア書房, 1979年.
1981
中原哲泉『京七宝文様集』吉田光邦, 中原顕二編. 京都: 淡交社, 1981年.
1982
Coben, Lawrence A., Dorothy C. Ferster (eds.). Japanese Cloisonné: History, Technique, and Appreciation. New York, Tokyo: Weatherhill, 1982.
1993
鈴木規夫執筆編集『七宝 日本の美術』322号 (1993年3月).
1994
Impey, Oliver, Malcom Fairley [et al.] (eds.). 明治の宝 = Meiji no Takara: Treasures of Imperial Japan, Vol. III. The Nasser D. Khalili Collection of Japanese art. London: Kibo Foundation, 1994.
1996
大熊敏之「明治“美術”史の一断面: 一九〇〇年パリ万国博覧会と帝室および宮内省」『三の丸尚蔵館年報・紀要』創刊号 (1996年3月): 35-52頁.
2002
大熊敏之「下手・輸出品・御用品: 明治工芸の三つの貌」要邦治, 江馬潤一郎[ほか]編 『明治天皇と明治美術の名宝: 明治天皇御生誕百五十年記念展』東京: 明治神宮, 2002年 (会場: 明治神宮文化館(宝物展示室)).
2004
東京国立博物館 [ほか]編『世紀の祭典万国博覧会の美術: 2005年日本国際博覧会開催記念展: パリ・ウィーン・シカゴ万博に見る東西の名品』[東京]: NHK, NHKプロモーション, 日本経済新聞社, 2004年 (会場: 東京国立博物館, 大阪市立美術館, 名古屋市博物館).
2005
七宝町七宝焼アートヴィレッジ編『並河靖之の技: 図録』七宝町 (愛知県): 七宝町七宝焼アートヴィレッジ, 2005年.
2008
村田理如『京七宝: 並河靖之作品集 清水三年坂美術館コレクション』京都: 淡交社, 2008年.
2009
東京国立博物館[ほか]編『皇室の名宝: 日本美の華: 御即位二十年記念特別展』1期, 2期. 東京: NHK, NHKプロモーション, 読売新聞社, 日本経済新聞社, 2009年 (会場: 東京国立博物館).
2010
並河靖之七宝記念館『七宝: 並河靖之七宝記念館館蔵品図録』京都: 並河靖之七宝記念館, 2010年.
2011
岡本隆志「並川靖之「四季花鳥図花瓶」について」『三の丸尚蔵館年報・紀要』16号 (2011年3月): 37-48頁.
2012
並河靖之七宝記念館『七宝の美空間 庭園と建物: 並河靖之七宝記念館図録』京都: 並河靖之七宝記念館, 2012年.
2012
宮内庁三の丸尚蔵館編『内国勧業博覧会: 明治美術の幕開け』東京: 宮内庁, 2012年 (会場: 宮内庁三の丸尚蔵館) [展覧会カタログ].
2013
京都国立近代美術館, 宮内庁三の丸尚蔵館, 日本経済新聞社編『皇室の名品: 近代日本美術の粋』東京: 日本経済新聞社, 2013年 (会場: 京都国立近代美術館) [展覧会カタログ].
2016
霞会館編『さらなる挑戦 霞会館資料, 第38輯 明治の万国博覧会: 美術工芸の半世紀: 2』東京: 霞会館, 2016年 (会場: 久米美術館) [展覧会カタログ].
2017
樋田豊郎, グレゴリー・アーヴィン, 大木香奈, 畑智子, 武藤夕佳里『並河靖之七宝: 明治七宝の誘惑: 透明な黒の感性』[東京]: 毎日新聞社, 2017年 (会場: 東京都庭園美術館, 伊丹市立美術館, パラミタミュージアム) [展覧会カタログ].
2018
平井啓修, 大長智広編『明治150年展: 明治の日本画と工芸』京都: 京都国立近代美術館, 2018年 (会場: 京都国立近代美術館).
2021
武藤夕佳里『並河靖之と明治の七宝業』京都: 思文閣出版, 2021年.
2022
茨城県天心記念五浦美術館編『並河靖之の雅な技: 世界を魅了した明治の京都七宝 開館25周年記念展: 2』[北茨城]: 茨城県天心記念五浦美術館, 2022年 (会場: 茨城県天心記念五浦美術館).
2022
京都市京セラ美術館学芸課編『綺羅めく京の明治美術: 世界が驚いた帝室技芸員の神業: 特別展』京都: 京都市京セラ美術館, 2022年 (会場: 京都市京セラ美術館).

Wikipedia

並河 靖之(なみかわ やすゆき、弘化2年9月1日(1845年10月1日) - 昭和2年(1927年)5月24日)は、日本の七宝家。明治期の日本を代表する七宝家の一人で、京都を中心に活躍。近代七宝の原点である有線七宝にこだわり続けてこれを極め、東京で活動した無線七宝を得意とするライバルの濤川惣助と共に、二人のナミカワと評された。

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  • 2024-02-08