A1526

関根正二

| 1899-04-03 | 1919-06-16

SEKINE Shōji

| 1899-04-03 | 1919-06-16

作家名
  • 関根正二
  • SEKINE Shōji (index name)
  • Sekine Shōji (display name)
  • 関根正二 (Japanese display name)
  • せきね しょうじ (transliterated hiragana)
  • せきね まさじ
  • Sekine Masaji
生年月日/結成年月日
1899-04-03
生地/結成地
福島県西白河郡大沼村(現・福島県白河市)
没年月日/解散年月日
1919-06-16
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1899年、福島県西白河郡大沼村に生まれる。父は農業のかたわら木端葺職人として生計を立てていたが、1903年から数年にわたって福島県を含む東北一帯を襲った大凶作により生活が困窮し、一家は8歳の正二をひとり白河に残して東京に移住。1年ほど遅れて正二も上京して深川区(現在の江東区)で家族と暮らす。1910年、家の近所に住む一歳年上の伊東一(のちの深水)と出会う。当時、深水は家の生計を助けるため尋常小学校を3年で退学し、活版印刷工を経て東京印刷株式会社の図案部に勤めていた。関根も尋常小学校を卒業後、夜間学校に進むも2年で退校し、深水の紹介で日本橋兜町にあった東京印刷の図案部で働き始める。その頃、東京印刷の図案部には顧問として日本画家の結城素明がおり、絵を志す者が多く働いていたという。関根は職場で小林専という文学好きの洋画家と知り合い、オスカー・ワイルドやニーチェを知る。1915年11月27日の日記に記されたワイルド『獄中記』の一節からも、その関心の高さがうかがわれるが、エピソードとして伝えられる関根の奇行の数々は、ワイルドへの憧れとアナーキズムが盛んだった時代の空気が少なからず関係しているだろう。 1915年、16歳で東京印刷を退社し、野村という名の日本画家と無銭旅行に出る。途中からひとりになって甲信越方面へ放浪するなか、長野で河野通勢と出会ったことは、関根に大きな転機を与えることとなった。通勢の父・河野次郎は長野市内で写真館を営む写真家であると同時に高橋由一門下に学んだ洋画家でもあった。ハリストス正教会の熱心な信者であった次郎の影響で自らも信者である通勢が語る神の存在。通勢から見せられたミケランジェロやアルブレヒト・デューラー、レオナルド・ダ・ヴィンチといった西欧巨匠たちの画集、あるいは通勢の描いた油彩とデッサンに関根は強い衝撃を受ける。旅から戻った関根はこう記している。「神は目を開かせた、力を認めた、表現に努力せよ」(大正4年7月4日午前10時/註)。関根にとっての「神」とは何か。キリスト教信仰を超えた全能の創造主、自らの内にある絶対的な存在とでもいうことができようか。極細の線描による細密描写は通勢からの影響を色濃くとどめるものの、この旅を機にそれまでの画風を一変させた関根は、不穏な雰囲気を漂わせる空と樹々を激しい筆触で描いた《死を思う日》(1915年、福島県立美術館寄託)で第2回二科展に初入選し、画壇デビューを果たす。 1916年初めから太平洋画会研究所に通い始め、この年の第3回二科展に油彩《習作》(所在不明)、《女》(1916年、個人蔵)、《ペン素描》(所在不明)を出品。前年には、歌人・前田夕暮門人たちによって計画された雑誌『炎』に参加し、親友となる歌人・村岡黒影と出会っている。また、深水を介して知り合った上野山清貢、素木しづ夫妻をはじめ、久米正雄、佐藤春夫、東郷青児、今東光らへと交友の幅を広げていった。1918年5月29日、30日には、生田長江の戯曲「円光」の舞台画を描き、久米正雄作・演出の第5回国民座公演「地蔵教由来」(有楽座、東京)では、今東光、東郷青児らとともに群衆のひとりとして舞台にも出演している。 精力的に制作に取り組む一方で、さまざまな女性たちと恋愛を繰り返す関根の「理想の女性」への思慕は、創造の原動力となる反面、度重なる失恋による精神的な不安をもたらすことにもなった。1917年末から翌年にかけての傷心を癒すための東北旅行では、山形にある村岡の実家にひと月ほど滞在し、黒影の母をモデルに《村岡みんの肖像》(1917年、神奈川県立近代美術館)を、郷里白河では《真田吉之助夫妻像》(1918年、福島県立美術館)を描いている。これらの作品に見られる生々しいまでの写実は、他の作風とは異なるが、人物に肉迫する鬼気迫る緊張感とセザンヌ風の色彩表現があいまった独自の肖像画となっている。 1918年春、持病である蓄膿症の手術をした関根は、病院で田口真咲という画家と出会い、思いを寄せるが、東郷青児によって阻まれる。術後の経過の悪さと失恋の痛手から、精神衰弱に陥り幻視を見るようになる。日比谷公園の松本楼で暴れて日比谷警察署に拘留された「発狂事件」が報じられたのは、《信仰の悲しみ》(1918年、大原美術館、岡山、重要文化財)が発表される少し前のことである。 1918年、第5回二科展に《信仰の悲しみ》、《姉弟》(1918年、福島県立美術館)、《自画像》(1918年、福島県立美術館)を出品し、樗牛賞を受賞する。関根は《信仰の悲しみ》について『みづゑ』(164号)に「私はけつして狂人ではないのです 真実 色々な暗示又幻影が目前に現れるのです 朝夕 孤独の淋さに何物かに祈る心地になる時 あした女が三人又五人 私の目前に現れるのです」と語っている。「関根のヴァーミリオン」と賞賛された朱色と深い青緑が見事に作用して独特な幻想世界を醸した《神の祈り》(1918年頃、福島県立美術館)、《子供》(1919年、石橋財団アーティゾン美術館、東京)、《三星》(1919年、東京国立近代美術館)と代表作が次々と描かれる。 1918年末から結核の症状が現れ、さらに世界的に流行したスペイン風邪により体調は急速に悪化する。死期を悟ったのか、亡くなるひと月ほど前、それまで描きためていた多くのデッサンを自宅の裏で燃やしたという。絶筆となる《慰められつゝ悩む》(所在不明)に署名しようとするも果たせず、1919年6月16日、20歳と2ヵ月という短い生涯を終えた。はげしい孤独感に苛まれ、虚構と現実の世界を行き来しながら、その輝く痕跡をカンヴァスに留めた関根が、画家として活動したのは5年足らずである。明治末から大正にかけての「個の表現」が意識された時代において、独自の豊かな感性を一気に開花させた関根正二は、多くの謎を残したまま散っていった。 なお、「正二」の読み方については、本名は「まさじ」であったが、作品に入れられたサインは「Shoji Sekine」あるいは「S. Sekine」が多く、画家としての名は「しょうじ」と音読みされるのが通例となっている。が、代表作《子供》のほか、晩年の作品に「Masaji」のサインが複数見られることから、「Shoji」と「Masaji」が意識的に使い分けられている可能性が指摘されている。 (長門 佐季)(掲載日:2023-12-15) 註 「覚書」に記された画家の言葉(『関根正二 遺稿・追想』中央公論美術出版、1980年)。

1915
第2回二科美術展覧会, 三越呉服店 (日本橋), 1915年.
1918
二科展05回, 竹之台陳列館, 1918年.
1919
関根正二 遺作展覧会: 信仰の悲しみ, 兜屋画堂, 神田, 1919年.
1935
村山槐多・関根正二 遺作洋画展覧会, 銀座三昧堂, 1935年.
1936
明治大正物故十作家遺作展, 大阪・三角堂, 1936年.
1938
物故天才画家回顧傑作展, 新宿・天城画廊, 1938年.
1953
近代美術展目録: 近代洋画の歩み (西洋と日本), 国立近代美術館 (京橋), 1953年.
1954
大正期の画家, 国立近代美術館 (京橋), 1954年.
1958
異端の画家たち: 読売アンデパンダン十周年記念: みなおした日本画壇史展, 上野松坂屋, 1958年.
1960
関根正二・村山槐多二人展 異色作家展シリーズ 第20回, 東横百貨店, 1960年.
1966
鬼才 関根正二デッサン展, 小田急, 1966年.
1967
靉光・関根正二展, 神奈川県立近代美術館, 1967年.
1976
関根正二・長谷川利行異色2人展, 伽藍洞ギャラリー栄店, 1976年.
1978
関根正二素描遺作展, キッド・アイラック・コレクシォン・ギャルリィ, 1978年.
1979
関根正二展: 郷土白河が生んだ幻視の画家, 白河市歴史民俗資料館, 1979年.
1981
関根正二と村山槐多: 夭折の天才画家, 小田急グランドギャラリー, 大丸エキジビジョンホール, 1981年.
1986
関根正二とその時代: 大正洋画の青春, 三重県立美術館, 福島県立美術館, 1986年.
1999
関根正二展: 生誕100年, 神奈川県立近代美術館, 福島県立美術館, 愛知県美術館, 1999年.
2017
ミッシングリンク: 関根正二の新発見と未発見: Gallery F: コレクション再発見, 福島県立美術館, 2017年.
2019
関根正二展: 生誕120年・没後100年, 福島県立美術館, 三重県立美術館, 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館, 2019–2020年.

  • 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市
  • 神奈川県立近代美術館
  • 東京国立近代美術館
  • 長野県立美術館 (信濃デッサン館コレクション)
  • 姫路市立美術館, 兵庫県
  • 福島県立美術館
  • 府中市美術館 (河野保雄コレクション)
  • ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
  • 三重県立美術館

1919
「関根正二追悼特集」『みづゑ』178号 (1919年12月): 9-38頁.
1963
小倉忠夫「関根正二 幻視の画家」河北倫明, 小倉忠夫『竹久夢二・村山槐多・関根正二 講談社版日本近代絵画全集: 第8』東京: 講談社, 1963年, 55-67頁.
1971
土方定一『大正・昭和期の画家たち』東京: 木耳社, 1971年, 3-45頁.
1976
土方定一『近代日本の画家論: 2 土方定一著作集: 7』 東京: 平凡社, 1976年, 145-200頁.
1979
陰里鉄郎編『村山槐多と関根正二 近代の美術, 50』(1979年1月).
1980
陰里鉄郎「図版解説 関根正二筆「死を思ふ日」」『美術研究』315号 (1980年12月): 28-32頁. 東京: 東京国立文化財研究所.
1981
海野弘「関根正二と村山槐多: もどかしく, 病める青春」『三彩』409号 (1981年10月): 65-69頁.
1981
伊東深水「関根正二と私」『三彩』409号 (1981年10月): 70-72頁.
1982
酒井忠康『青春の画像』東京: 美術公論社, 1982年, 181-206頁.
1983
丹尾安典「関根正二拾遺: 上 アート・クリティック」『三彩』428号 (1983年5月): 72-78頁.
1983
丹尾安典「関根正二拾遺: 下 アート・クリティック」『三彩』429号 (1983年6月): 86-94頁.
1985
酒井忠康編『関根正二 遺稿・追想』東京: 中央公論美術出版, 1985年. 新装版1991年.
1986
岡部幹彦「関根正二私論」『三彩』468号 (1986年9月): 20, 37-40頁.
1988
中谷伸生「関根正二の絵画における「宗教的な気分」について: 大正美術の一側面」『関西大学哲学』13号 (1988年10月): 55-87頁.
1993
田中淳責任編集『新思潮の開花: 明治から大正へ 日本の近代美術: 4 』東京: 大月書店, 1993年, 113-128頁.
1997
関河惇『幻視の画家 関根正二の肖像』横浜: 門土社, 1997年.
1997
荒波力『青嵐の関根正二』東京: 春秋社, 1997年.
2000
酒井忠康監修・編『雲の中を歩く男: 関根正二画文集』東京: 求龍堂, 2000年.
2000
市川政憲研究代表『明治・大正期における「ロマンティシズム」の検証: 青木繁から関根正二まで 科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書, 平成10-12年度』[東京]: [市川政憲], 2000年.
2004
蔵屋美香「関根正二 信仰の悲しみ」『國華』1305号 (2004年7月): 11, 24-25頁.
2012
窪島誠一郎「凝視する『自画像』: 関根正二」『夭折画家ノオト: 20世紀日本の若き芸術家たち』東京: アーツアンドクラフツ, 2012年, 39-56頁.
2013
貝塚健「関根正二《子供》のいま」『館報』61号 (2013年3月): 74-82頁, 東京, 久留米: 石橋財団ブリヂストン美術館, 石橋財団石橋美術館.

Wikipedia

関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家である。

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VIAF ID
71698321
AOW ID
_40148098
Benezit ID
B00167320
NDL ID
00069717
Wikidata ID
Q11656069
  • 2024-03-01