A1344

黒田清輝

| 1866-08-09 | 1924-07-15

KURODA Seiki

| 1866-08-09 | 1924-07-15

作家名
  • 黒田清輝
  • KURODA Seiki (index name)
  • Kuroda Seiki (display name)
  • 黒田清輝 (Japanese display name)
  • くろだ せいき (transliterated hiragana)
  • Kuroda Kiyoteru
生年月日/結成年月日
1866-08-09
生地/結成地
薩摩国鹿児島城下東千石馬場町(現・鹿児島県鹿児島市東千石町)
没年月日/解散年月日
1924-07-15
没地/解散地
東京府東京市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1866年、薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島市)に生まれる。父は薩摩藩士の黒田清兼。1871年に伯父・黒田清綱の養嗣子となり、翌年上京。養父となった黒田清綱は元老院議官を務めるなど明治新政府に出仕し、養子の清輝も法律家を志すことになる。二松学舎、共立学校、築地英学校を経て、1883年外国語学校フランス語科2年級に編入。翌1884年に法律を学ぶためにフランスへ留学。しかし留学先のパリで洋画家の山本芳翠や藤雅三、画商の林忠正と交わる中、自らの画才に目覚める。藤の通訳として知り合ったラファエル・コランに1886年入門、翌年には法律修学を放棄し、画学に専念。コランの教室で生涯の盟友となる久米桂一郎と知り合う。 黒田が師事したコランは明るい外光表現を取り入れた女性像、とくに裸婦を得意とするアカデミックな画家で、その指導の下、黒田も人体デッサンの修練を十全に積んでいる。一方でバルビゾン派のジャン = フランソワ・ミレーに傾倒し、牧歌的な題材を求めてしばしばパリ郊外の農村へ赴く。とりわけフォンテーヌブローの森の南端に位置する小村グレー = シュル = ロワンには1888年以降足を運び、1890年より居住、その風光をモティーフとした小品を数多く制作する。また同地で出会ったマリア・ビヨーをモデルに描いた《読書》(1891年、東京国立博物館)はフランス芸術家協会のサロンに入選、黒田のフランス画壇デビュー作となった。1892年にはサロンへの出品を念頭に、複数の女性像からなる《夏図》の制作に取り組むが未完に終わる。フランス留学最後の年となる1893年には鏡を前に身繕いする裸婦を描いた《朝妝[ちょうしょう]》(焼失)を制作、国民美術協会のサロンへの入選を果たす。 フランスより帰国した1893年に京都を訪れ、色彩豊かな《舞妓》(東京国立博物館)を制作、また大作《昔語り》(1898年、焼失)の着想を得る。1894年山本芳翠の生巧館を譲り受け、久米桂一郎と画塾天真道場を開設。同年11月から翌年2月にかけてパリの新聞社ル・モンド・イリュストレ社の通信員として日清戦争に従軍。従軍より帰国して間もなく京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品の滞欧作《朝妝》が公序良俗に反するとして、いわゆる「裸体画論争」を引き起こす。 帰国後の黒田は洋風美術団体である明治美術会を活動の場としていたが、コランから受け継いだ清新な作風は同会のそれとは異なり、暗い色調による旧来の「脂派[やには]」に対し「紫派」と呼ばれた。1896年には、規則も役員もなく自由平等で社交的な寄り集まりを求めて久米桂一郎らと白馬会を結成。同年には東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が新設され、黒田はその嘱託となり、1898年には教授に就任。東京美術学校の学生が白馬会の展覧会を作品発表の場とするなど、美術学校と白馬会を教育システムとして互いに補完させることで、黒田を中心とする一派は近代日本洋画のアカデミズムを確固たるものへと築き上げていく。 1896年の第1回白馬会展に京都で着想を得た《昔語り》の画稿や下絵を出品、完成作は1898年の第3回展での出品となるが、そこで黒田は留学中に《夏図》制作で試みた入念なコンポジションを日本で示そうとしたものと思われる。1897年の第2回展には《智・感・情》(東京国立博物館)を出品、《朝妝》で非難の的となった裸体画を発表するとともに、絵画が抽象的な概念の表象となることを示す。1900年から翌年にかけて、文部省より美術に関する制度の取り調べ、並びに絵画教授法研究のためフランス留学を命じられ渡欧。この間に開催されたパリ万国博覧会に《智・感・情》や《湖畔》(1897年、東京国立博物館)等を出品し、日本人の洋画家では最高賞となる銀杯を受賞する。またパリ滞在中に《裸体婦人像》(1901年、静嘉堂文庫美術館、東京)を制作、帰国後に第6回白馬会展へ出品するが、公序良俗に反するとして、警察の指示により裸婦像の下半身を布で覆って展示されるという「腰巻事件」を引き起こす。1895年の第4回内国勧業博覧会での《朝妝》出品以来、裸体画の是非をめぐって黒田は矢面に立つも、人体描写は洋画制作の基本であるとして裸体画の作品を発表し続け、また新聞や雑誌を通じてその必要性を訴えた。 1907年の文部省美術展覧会(文展)開設に際しては、フランスのサロンを念頭に設置を主張、開設後は審査委員を務める。1910年には洋画家として初めて帝室技芸員に任命。翌1911年、文展の開設により展覧会開催の使命を終えたとして白馬会を解散。1913年には美術家の社会的立場の保護と互助を目的とした国民美術協会を結成し、その会頭に推挙される。同年、写真家の小川一眞、丸木利陽[りよう]とともに宮内省調度寮の嘱託となり、天皇皇后の御真影をはじめ皇族の写真撮影に関与。1917年には子爵であった養父・清綱が没し、その爵位を継ぐ。1919年、文部大臣の管理下で開設された帝国美術院の会員に任命。1920年には貴族院議員に当選。1922年、帝国美術院の初代院長だった森鷗外の死去に伴い、院長に就任。1923年12月、宮内省出勤中に狭心症を発し臥床、翌1924年に一時小康を得るも7月15日に57歳で死去した。 フランスでラファエル・コランに学んだ黒田清輝が帰国後に目指したのは、日本の洋画界におけるアカデミズムの確立だった。官立の東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、「メートル」(maître、大先生)と呼ばれるほどに存在感を発揮。また文展の開設を唱えるなど、美術をめぐる近代的な制度の整備に力を尽くす。その制作活動においても、非難を浴びる中で裸体画を執拗に発表し続けたのは、人体描写を基礎におく西洋美術のあり方を日本に根づかせようとしたからに他ならない。さらに《昔語り》のような、複数の人物像から構成される大画面の制作も西洋のアカデミックな絵画理念に基づくものであった。ただ黒田自身は、そうしたコンポジションによる制作を必ずしも得意としたわけではなく、《昔語り》を除けば、完成にまで至った群像表現の大作の例は皆無に等しい。むしろ黒田が能くしたのは、明るい色彩でスケッチ風に身辺のモティーフを描写することだった。晩年になるにつれ小品の制作が増え、風景や草花を感興に任せて描いた作が目立つようになるが、これは東京美術学校の教授をはじめ、文展の審査員や帝室技芸員、帝国美術院長といった要職を歴任し、多忙を極めたという理由の他に、黒田自身の資質によるところも大きかったと思われる。 黒田は遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言し、これを受け1930年、美術に関する学術的な調査研究と資料の収集を行う機関として、帝国美術院附属の美術研究所(現・東京文化財研究所)が創設。同研究所内には創立の礎となった黒田清輝を顕彰すべく、遺族や関係者から寄贈された《智・感・情》《湖畔》等の作品を展示公開する黒田記念室が設けられ、建物全体も黒田記念館と呼びならわすようになった。なお同記念館およびその所蔵作品は、2007年に東京文化財研究所から東京国立博物館へ移管となっている。 (塩谷 純)(掲載日:2023-09-11)

1924
黒田清輝先生遺作展覧会, 東京美術学校, 1924年.
1965
黒田清輝展: 生誕百年記念, ブリヂストン美術館, 1965年.
1973
黒田清輝展, 神奈川県立近代美術館, 福岡県文化会館, 鹿児島市立美術館, 愛知県美術館, 1973年.
1986
黒田清輝展: 生誕120年記念, 三重県立美術館, 高岡市立美術館, 東京都庭園美術館, 熊本県立美術館, 1986年.
1989
黒田清輝展: 近代日本洋画の巨匠, 茨城県近代美術館, 1989年.
2002
黒田清輝展: 鹿児島が生んだ日本近代洋画の巨匠, 鹿児島市立美術館, 2002年.
2014
黒田清輝展: 近代日本洋画の巨匠: 没後90年, 京都文化博物館, 2014年.
2016
黒田清輝: 日本近代絵画の巨匠: 生誕150年, 東京国立博物館, 2016年.

  • 東京国立博物館 (黒田記念館)
  • 鹿児島市立美術館
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
  • 静嘉堂文庫美術館, 東京
  • ポーラ美術館, 神奈川県箱根町
  • ウッドワン美術館, 広島県廿日市
  • 久米美術館, 東京
  • 岩崎美術館, 鹿児島県指宿市
  • 鹿児島県歴史・美術センター黎明館

1925
和田英作編『黒田清輝作品全集』東京: 審美書院, 1925年.
1937
坂井犀水『黒田清輝』東京: 聖文閣, 1937年.
1949
国立博物館編『黒田清輝素描集』東京: 国立博物館, 1949年.
1966
黒田清輝『黒田清輝日記』全4冊. 東京: 中央公論美術出版, 1966-1968年 [自筆文献].
1966
隈元謙次郎『黒田清輝』東京: 日本経済新聞社, 1966年.
1982
東京国立文化財研究所編『黒田清輝素描集』東京: 日動出版, 1982年.
1983
黒田清輝『絵画の将来』東京: 中央公論美術出版, 1983年 [自筆文献].
1995
田中淳『黒田清輝と白馬会 日本の美術: No. 351 明治の洋画』東京: 至文堂, 1995年.
2002
東京文化財研究所美術部編『黒田清輝《智・感・情》 美術研究作品資料: 第1冊』東京: 中央公論美術出版, 2002年.
2007
東京文化財研究所企画情報部編『黒田清輝著述集』東京: 中央公論美術出版, 2007年 [自筆文献].
2008
東京文化財研究所企画情報部編『黒田清輝《湖畔》 美術研究作品資料: 第5冊』東京: 中央公論美術出版, 2008年.
2010
東京文化財研究所編集『黒田清輝フランス語資料集』東京: 中央公論美術出版, 2010年 [自筆文献].
2016
松嶋雅人, 三浦篤, 山梨絵美子, 塩谷純, 田所泰, 田中潤執筆『黒田清輝: 日本近代絵画の巨匠: 生誕150年』東京国立博物館[ほか]編, 美術出版社, 2016年 (会場: 東京国立博物館) [展覧会カタログ].

Wikipedia

黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、政治家。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は子爵。通称は新太郎(しんたろう)。名の清輝は、本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。教え子からは「メートル(先生)」とフランス語(maître)で呼ばれた。東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。

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VIAF ID
53042184
ULAN ID
500124860
AOW ID
_00050319
Benezit ID
B00102028
Grove Art Online ID
T048345
NDL ID
00038117
Wikidata ID
Q910913
  • 2023-09-26