- 作家名
- 熊谷守一
- KUMAGAI Morikazu (index name)
- Kumagai Morikazu (display name)
- くまがい もりかず (transliterated hiragana)
- 熊谷守一 (Japanese display name)
- 生年月日/結成年月日
- 1880-04-02
- 生地/結成地
- 岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)
- 没年月日/解散年月日
- 1977-08-01
- 没地/解散地
- 東京都豊島区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
- 書
作家解説
1880年4月2日、岐阜県恵那郡付知村[えなぐんつけちむら](現・中津川市付知町)に、父・孫六郎、母・タイの三男(第七子で末子)として生まれる。実業家・孫六郎はのちに初代岐阜市長、衆議院議員となった。3歳で生母と離れ、以後たびたび付知に呼び戻されることもあったが、父と二人の妾が住む岐阜市内で暮らす。岐阜県尋常小学校、岐阜県尋常中学校卒業後上京。11歳の時濃尾地震に遭っている。父が借りていた東京・芝の家から正則尋常中学校に通うが一年で退学、築地の欧文正鵠学館(サンマー学校)に学ぶ。この頃、画家を志す。父からは反対されたものの慶應義塾普通学科に一学期通ったら好きなことをして良いと言われ、一学期だけ通ったのち、共立美術学館で日本画の基礎を学ぶ。
1900年9月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科撰科に入学。黒田清輝、藤島武二、長原孝太郎らに学び、同級生には青木繁、和田三造、山下新太郎、児島虎次郎らがいた。1902年父が急死したのち、下谷区入谷[したやくいりや]で和田三造、橋本邦助[くにすけ]、辻永、柳敬助とともにのちに「入谷の五人男」と呼ばれる共同生活を1904年まで送った。同年撰科を首席で卒業。卒業の年には第9回白馬会展に《自画像》(東京藝術大学)が入選。この間1903年に日暮里駅近くの踏切で鉄道自殺に遭遇、女性の轢死体をスケッチした。撰科を卒業後、3年研究科に在籍しながら、農商務省樺太調査隊に2年間参加、記録のスケッチ制作に従事(関東大震災で現存しない)。1908年第2回文部省美術展覧会(文展)に、先のスケッチから制作した《轢死》(岐阜県美術館)を出品予定だったが認められなかったことは、その後の官への拒絶—在野団体への移行、文化勲章の辞退など—の一因とも考えられる。代わりに出品した《肖像》で文展初入選。翌年の第3回文展では《蠟燭》(岐阜県美術館)で褒状を受ける。これらの作品からは、暗闇と仄かな光源からの光への関心が伺われる。1910年第13回白馬会展に《轢死》を出品。この頃は表現主義的ともいえる作品を描いた。
1910年10月母危篤の報で帰郷、母の没後は付知に滞在。兄の世話になりつつ一時的な上京を挟み、伐採した木材を川で流し搬送する日傭[ひよう]に2年従事した。1912年にはフランスから帰国した東京美術学校時代からの友人斎藤豊作による訪問を受けたほか、友人たちに再三上京を勧められ、1915年6月ようやく上京。斎藤からは月々金銭的な支援を受けた。この上京を機に第2回から二科美術展覧会(二科展)に作品を発表。以後ほぼ毎年出品を重ねる。前半生は寡作だが、樺太調査や徒歩旅行などで自然に深く触れたことは、のちの制作につながったと言える。
1922年和歌山県の山林地主の娘・大江秀子と結婚、その後4年のうちに3子、1929年、31年とあわせて5人の子に恵まれるが、3人を亡くした熊谷は家族の死を時に衝動的に(《陽の死んだ日》大原美術館)、時に思い返して(《ヤキバノカエリ》岐阜県美術館)作品にしている。1929年二科技塾(のちに番衆技塾、二科美術研究所と改称)が開設されると、熊谷は講師として約10年間指導に当たる。ここでの教え子たちとの交流と、技塾の集団としての活動がなくなったあと戦後までも続いたスケッチ旅行は、熊谷のモチーフ選択の幅となり制作に生かされた。技塾からの車代が主な収入で常に困窮していたところ、秀子の実家の援助により1932年末豊島区長崎仲町(現・豊島区千早)に自宅を新築、終生ここに暮らした。熊谷には信時潔[のぶとききよし]をはじめ音楽関係の友人も多く、友人たちからの生活への援助もあった。住まいはアトリエ付き貸家が多く建ち並んだ地域に近かったため、池袋モンパルナスの画家たちには一目置かれ、なかでも長谷川利行との交流が知られる。
1933年53歳で、初めての個展が神戸画廊で開催される。1937年頃からは浜田葆光[しげみつ]に勧められ日本画も描き始める。同様に浜田宅で伝空海の書を見たことを契機に、書も制作。やがて熊谷の大きな理解者であり支援者となる35歳年下のコレクター・木村定三と出会ったのは、1938年の新作毛筆画展(丸善名古屋支店)であった。この頃から作品が売れ始める。1940年には第27回二科展内で熊谷守一生誕六十年記念陳列が行われ、1942年『熊谷守一画集』(東京:熊谷守一画集刊行会)を刊行。日動画廊や丸善などでの展示の機会も増える。1945年4月の城北空襲は東京北部・豊島区域に甚大な被害をもたらしたが自宅は焼け残った。戦後はそれまで出品していた二科会の再開には加わらず、1947年4月第二紀会結成に加わり第1回展に出品するが1951年退会、以後団体展から離れる。それでも同人として1948年から雑誌『心』に参加、作品や談話が掲載され、1951年から1954年までは清光会に出品した。1964年にはダヴィッド・エ・ガルニエ画廊(パリ)で作品が展観される。1930年代半ばからモチーフに輪郭線が見られるようになり、線の肥瘦、彩色などにさまざまな手法で取り組んだ。
1956年長女・萬[まん]の死後9年を経て《ヤキバノカエリ》を第2回現代日本美術展に出品。子の死を乗り越えた家族像として描かれた本作は、いのちを見つめた制作を行うようになったことの表れといわれる(註1)。これには同年春、脳卒中の発作を起こしてから控えられた遠出に代わり、庭の植物や生きものへの観察を深めたことも関係しているだろう。「明確な輪郭で形を決めた内側をそれぞれ単色で塗ってゆく」(註2)いわゆる守一様式の完成も見られる。1971年6月から7月にかけて『日本経済新聞』に掲載された「私の履歴書」が11月には『へたも絵のうち』(東京:日本経済新聞社)として刊行される。制作への姿勢が熊谷の風貌・暮らしとともに知られるようになり、作品展観の機会も増える一方で1967年の文化勲章、1972年の勲三等叙勲を辞退したことは注目された。1976年《アゲ羽蝶》(豊島区立熊谷守一美術館、東京)が最後の油彩作品となり、翌年8月1日肺炎で死去。
誰が見てもわかる、そして誰が見てもわからない(註3)、と教え子に言われる熊谷の作品。美術史における新しい動向の受容や団体の結成などには加わっていないが、作品は広く知られ根強いファンも多い。その一方で、仙人のような風貌が写真やテレビ映像を通じて流布し、没後も映画『モリのいる場所』(2018年)でそれらのイメージが再生産されるなど、作品よりも生活や人となりに比重が置かれてきた傾向がある。また、スケッチと自身の書き込みを見れば大体のことはわかると本人が語り(註4)、同じ構図で描かれる複数の作品は、制作年を想定して鑑賞することを難しいものにしてきた。しかしそこを解きほぐそうという動向も見られる(註5)。幅広い交友関係に培われ、形と色とを探求した画家として、熊谷研究はこれからも定説を更新するだろう。
作品は出身地の岐阜県美術館をはじめ、愛知県美術館には木村定三コレクションが収められている。天童市美術館(山形)には村山祐太郎記念室がある。関連施設としては、1976年付知に熊谷守一記念館ができ、2015年に熊谷守一つけち記念館が新設されると記念館の作品は寄託された。アトリエ兼住居があった豊島区千早には、1985年に次女・榧[かや]により熊谷守一美術館が創設され、2007年からは豊島区立となって2025年、40周年を迎えた。日記、書簡などの資料は岐阜県歴史資料館に寄贈されている。
(小林未央子)(掲載日:2025-12-01)
註1
小泉淳一「熊谷守一の画業」『豊島区立熊谷守一美術館作品集』豊島区立熊谷守一美術館/株式会社榧、2025年4月、12頁。
註2
註1に同じ。
註3
鈴木十五郎、鈴木寿和子「熊谷先生に教わったこと」『天童市美術館研究紀要』第1号、1998年9月、31頁。
註4
熊谷守一『へたも絵のうち』日本経済新聞社、1971年11月、146頁。
註5
池田良平「熊谷守一研究の問題点」(『没後20年熊谷守一展』図録、天童市美術館、足利市立美術館、浜松市立美術館、飯田市美術館、1997−1998年)のほか、小泉淳一は前掲註1で特に後半期の研究についてはこれからと語る。
- 1962
- 熊谷守一展, 日本橋・白木屋, 1962年.
- 1970
- 熊谷守一展, 神奈川県立近代美術館, 1970年.
- 1985
- へたも絵のうち: 熊谷守一のアトリエとくらし, 豊島区立郷土資料館, 1985年.
- 1991
- 熊谷守一展: 宇宙に遊ぶ童心,岐阜県美術館,天童市美術館,石川県立美術館,愛媛県立美術館,1991–1992年.
- 1997
- 「熊谷守一」展: 没後20年, 天童市美術館, 足利市立美術館, 浜松市美術館, 飯田市美術博物館, 1997–1998年.
- 2002
- 熊谷守一ものがたり: へたも絵のうち展覧会, 茨城県近代美術館, 2002年.
- 2007
- 熊谷守一展: 天与の色彩 究極のかたち: 没後30年, 萬鉄五郎記念美術館, 成羽町美術館, 天童市美術館, 埼玉県立近代美術館, 2007–2008年.
- 2008
- いのちのかたち: 熊谷守一展, 岐阜県美術館, 2008年.
- 2014
- 守一のいる場所: 熊谷守一, 岐阜県美術館, 2014年.
- 2017
- 没後40年: 熊谷守一: 生きるよろこび, 東京国立近代美術館, 愛媛県美術館, 2017–2018年.
- 2025
- めぐる いのち 熊谷守一美術館40周年展, 豊島区立熊谷守一美術館, 2025年.
- 愛知県美術館
- 大原美術館, 岡山県倉敷市
- 茨城県近代美術館
- 岐阜県美術館
- 熊谷守一つけち記念館
- 東京国立近代美術館
- 天童市美術館, 山形県
- 豊島区立熊谷守一美術館, 東京
- 1971
- 熊谷守一『へたも絵のうち』東京: 日本経済新聞社, 1971年.
- 1976
- 熊谷守一『蒼蠅』東京: 求龍堂, 1976年.
- 2002
- 小泉淳一「三つの死」『熊谷守一ものがたり: へたも絵のうち展覧会』茨城県近代美術館編. 水戸: 茨城県近代美術館, 2002年. [展覧会カタログ].
- 2004
- 『熊谷守一油彩画全作品集』東京: 求龍堂, 2004年. [カタログ・レゾネ].
- 2004
- 廣江泰孝, 勝野浩, 金森透編『守一ののこしたもの: 熊谷守一』岐阜: 岐阜新聞社, 2004年. [展覧会カタログ].
- 2004
- 村田真宏ほか編『熊谷守一 木村定三コレクション』[名古屋]: 愛知県美術館, 2004年 (会場: 愛知県美術館). [展覧会カタログ].
- 2014
- 熊谷守一展実行委員会, 廣江泰孝企画・監修『守一のいる場所 熊谷守一』東京: 求龍堂, 2014年 (会場: 岐阜県美術館). [展覧会カタログ].
- 2017
- 『木村定三コレクション編 愛知県美術館研究紀要』第23号 (2017年).
- 2018
- 福井淳子『いのちへのまなざし: 熊谷守一評伝』東京: 求龍堂, 2018年.
- 2019
- 東京文化財研究所「熊谷守一」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語) https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9690.html
- 2025
- 豊島区立熊谷守一美術館編『豊島区立熊谷守一美術館作品集』[東京]: 豊島区立熊谷守一美術館; 榧, 2025年 (会場: 豊島区立熊谷守一美術館). [展覧会カタログ].
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「熊谷守一」『日本美術年鑑』昭和53年版(267-269頁)画壇の最長老で、もと二科会、二紀会委員の洋画家、熊谷守一は、8月1日、午前4時35分、肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年97。岐阜県の小村に生まれ、明治37年東京美術学校西洋画科を卒業、同期に青木繁、和田三造、山下新太郎などがいたが、卒業後、政府の樺太調査隊に参加したり、その後は郷里の木曾山中で5年間にわたり樵夫の生活をおくるなど特異な経歴をもち、友人のすすめで上京、大正中期から昭和前期...
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熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。
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- 2025-10-10