- 作家名
- 川端龍子
- KAWABATA Ryūshi (index name)
- Kawabata Ryūshi (display name)
- 川端龍子 (Japanese display name)
- かわばた りゅうし (transliterated hiragana)
- 川端昇太郎 (real name)
- 生年月日/結成年月日
- 1885-06-06
- 生地/結成地
- 和歌山県和歌山市
- 没年月日/解散年月日
- 1966-04-10
- 没地/解散地
- 東京都大田区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1885年6月6日、和歌山市に生まれる。本名は昇太郎[しょうたろう]。内町東[うちまちひがし]尋常小学校(現・和歌山市立本町[ほんまち]小学校)に入学、生家は本町で俵屋[たわらや]という呉服屋を営んでいたが、経営が傾き父は店をたたんでいる。10歳の頃、母、妹とともに父が暮らす東京へ転居、しかし、東京で父はすでに別の家庭を持っており、龍子はそこで暮らすこととなった。1897年、異母弟の信一[のぶかず]が生まれる。この異母弟は、後に俳人として活躍する川端茅舎[かわばたぼうしゃ]である。日本橋の城東小学校を卒業すると、1899年、東京府立第一中学校分校(後に府立第三中学校として独立、現・東京都立両国高校)に入学。1903年、読売新聞の創刊30年記念事業で一般募集された「明治三十年画史」に入選し、洋画家になることを志す。中学校を中退すると、1904年、19歳で龍子は父の家を出て、東京・大森にあった母方の親戚の家に身を寄せ、白馬会洋画研究所に通い洋画を学ぶ。しかし、2年ほどで退所、太平洋画会研究所へ移り、生涯の友となる鶴田吾郎[つるたごろう]と知り合うも、3カ月ほどで退所した。「私の正則な研究時代は、この太平洋画会研究所を以て終りを告げた」と自身で述べるように(註1)、以降、龍子は独学で自らの芸術を切り開いていく。
龍子は21歳で家庭を持つと、北澤楽天[きたざわらくてん]が主筆の漫画雑誌『東京パック』等で挿絵を描いて生計を立てるようになる。並行して油彩画の制作も続け、1907年には東京勧業博覧会、第1回文部省美術展覧会(文展)、翌年の第2回文展に入選している。また、1907年、国民新聞社に自薦の手紙を送り、編集局に勤め始める。同社では、平福百穂[ひらふくひゃくすい]と龍子は机を並べ仕事をし、創設されたばかりの文芸部にいた高濱虚子からは俳句の薫陶を受けた。さらに、翌年の1908年には、実業之日本社の雑誌『少女の友』に創刊号から挿絵を描き始める。雅号「龍子」は、この頃から使用され始めている。その由来について龍子は、父への強い不満から「俺は龍の落し子なのだ」という思いをかねてから抱いており、「自分の生んだ藝術の戸籍」として雅号を「龍子」としたと述べている(註2)。
1913年、28歳で遊学のためアメリカに渡った龍子に転機が訪れる。アメリカで名立たる西洋絵画を見ても収穫が得られないまま、ボストン美術館を訪れた時、東洋美術のコレクションを眼前にし、龍子は大きな感銘を受けたのであった。なかでも《平治物語絵巻 三条殿夜討の巻[さんじょうどのようちのまき]》(鎌倉時代)に魅了されてしまい、半年ほどの滞在から帰国すると、龍子は洋画から日本画へと転向する。帰国の翌年の1914年、東京大正博覧会に初めての日本画作品を制作し入選、29歳にして日本画家・川端龍子は誕生する。同年、横山大観[よこやまたいかん]らによって日本美術院が再興されると、日本美術院再興記念展覧会に《踏切》(大田区立龍子記念館、東京 寄託)を出品、同作は残念ながら落選するも、翌年の再興第2回日本美術院展覧会(院展)に出品した《狐の径[みち/こみち]》(焼失)で初入選を果たす。1916年の再興第3回院展においては、《霊泉由来[れいせんゆらい]》(永青文庫、東京)を出品し樗牛賞を受賞、院友に推挙される。そして、翌年の再興第4回院展への入選によって同人に推挙され、日本画を描き始めてわずか3年余りで、大きな活躍の舞台を得ることとなった。
日本美術院での龍子は、洋画的傾向の強い作風で、《霊泉由来》に表されたような神話や伝説を題材とした作品や、《慈悲光礼讃(朝・夕)[じひこうらいさん]》(1918年、東京国立近代美術館)、《土》(1919年、大田区立龍子記念館)に見られる自然賛美を表した作品を発表していった。そして、1920年に自宅兼画室「御形荘[ごぎょうそう]」を大森の新井宿(現・大田区南馬込)に建造、この新しい画室で初めて制作した《火生(日本武尊)[かしょう やまとたけるのみこと]》(1921年、大田区立龍子記念館)が龍子の画境を開くこととなる。この一作が、大画面に鮮烈な色彩表現を施した作品であったことから、「会場芸術」という批判の声が上がったのである。その批判に対し龍子は、「展覧会における芸術が、広く大衆と結びつけばつくほど、それは良い意味での会場芸術となる」(註3)という思いを強く持った。1926年から1928年にかけて、龍子は「会場芸術」を実践すべく、修験道の開祖・役小角[えんのおづぬ]の伝説を大画面の連作〈行者道三部作〉に表し、毎年の院展で発表した。そして、その完結編となる第三作《神変大菩薩[じんべ(ぺ)んだいぼさつ]》(大田区立龍子記念館)を発表した1928年の再興第15回院展の会期中、龍子は日本美術院を突如脱退する。大観からの厚い信頼を得ていたものの、龍子は日本美術院を出て自らの芸術を追求する決意を示したのである。
脱退翌年の1929年、龍子は44歳にして自らの美術団体・青龍社を設立、わずか十余名の船出であったが、第1回青龍社展覧会(青龍展)においては、《鳴門》(山種美術館、東京)等を発表し注目を集めた。それから、「繊細巧緻なる現下一般的の作風に対しての、健剛なる芸術に向っての進軍」(註4)を旗幟として、「会場芸術」を龍子は追求していく。戦時色が濃くなる1930年代には、破格のスケールの画面に、近代的なモチーフを描いて時代性を反映させた連作〈太平洋〉(《龍巻》1933年、《波切不動》1934年、《椰子の篝火》1935年、《海洋を制するもの》1936年、いずれも大田区立龍子記念館)、連作〈大陸策〉(《朝暘来[ちょうようらい]》1937年、《源義経(ジンギスカン)》1938年、《香炉峰》1939年、《花摘雲[はなつむくも]》1940年、いずれも大田区立龍子記念館)を毎年の青龍展で発表し、大衆から絶大な支持を得るようになる。在野団体の主宰として求心力が高まる中、1935年の帝国美術院改組の時に会員に任命されるも、翌年の再改組の際に龍子は辞表を提出し、在野精神を貫こうとした。また、1937年から1940年にかけては、軍の嘱託画家として従軍し中国大陸へと4度渡っている。さらに太平洋戦争開戦後は、1942年に南方戦線へも赴いた。そして、終戦間際の1945年8月13日、大森の自宅が爆撃を受け倒壊する。その時の光景を描いた龍子の代表作が《爆弾散華[ばくだんさんげ]》(1945年、大田区立龍子記念館)である。
終戦後、10月に龍子は他の美術団体に先がけ青龍展を開催、それからも日本の戦後復興に向け旺盛な制作を続け、1949年には目黒不動尊(東京・目黒、瀧泉寺[りゅうせんじ])、1952年に修禅寺(静岡・伊豆市)、1956年に浅草寺(東京・台東区)の天井画に次々と龍の図を描き上げている。戦後においても龍子は、《金閣炎上》(1950年、東京国立近代美術館)のように時事的なテーマを好んで作品化し、大画面の作品制作を続けた。さらに、戦中に妻や三男を亡くしたことから、四国遍路や西国巡礼に赴き、その中で風景画にも取り組むようになった。また、円熟した筆致でユーモラスな河童の姿を描き始めるのも特徴的である。1952年から1957年にかけては、横山大観、川合玉堂と肩を並べて「三巨匠展」(兼素洞、東京)が開催され、日本画壇において龍子は確固たる地位を築くこととなった。そして、1959年に文化勲章を受章、1963年には大森の自宅前に龍子記念館(1991年からは大田区に移管され、大田区立龍子記念館として運営)を自らの発意と設計により開館した。1966年、池上本門寺(東京・大田区)の天井画《龍》の制作中に病臥し、4月10日に逝去。享年80。同年、龍子の遺志により青龍社は解散した。その死に際し、日本近代美術における龍子の功績は、院展でも文展でもない「日本画壇における第三の道の開拓であった」(註5)と評されている。筆を擱くまで大画面の作品に挑み続け、池上本門寺の未完の天井画が龍子の絶筆となった。
(木村 拓也)(掲載日:2023-09-11)
註1
川端龍子『わが画生活』、大日本雄弁会講談社、1951年、29頁。
註2
同書、72頁。
註3
同書、122頁。
註4
川端龍子「行進曲」『青龍社第一回展覧会目録』1929年。
註5
河北倫明「画壇の二長老を悼む 三代に大きな足跡」『読売新聞』1966年4月11日。
- 1955
- 古稀記念 第1回龍子の歩み, 日本橋髙島屋, 1955年.
- 1958
- 青龍社30周年記念 第2回龍子の歩み, 日本橋髙島屋, 1958年.
- 1962
- 喜寿記念 第3回龍子の歩み, 日本橋髙島屋, 1962年.
- 1966
- 川端龍子展, 和歌山県立美術館, 1966年.
- 1967
- 龍子を偲ぶ, 日本橋三越, 1967年.
- 1974
- 川端龍子: その人と芸術, 山種美術館, 1974年.
- 1977
- 龍子そのすべて: 川端龍子展, 大阪・心斎橋そごう, 1977年.
- 1985
- 生誕100年 川端龍子展, 福島県立美術館, 1985年.
- 1990
- 川端龍子展: 在野の魂: 龍子記念館の30年, 日本橋三越, 1990年.
- 1997
- 川端龍子展: 没後30年: 近代日本画壇の巨匠, 名古屋松坂屋美術館, 日本橋高島屋, 京都高島屋, 1997年.
- 2005
- 龍子を魅了した仏たち: 川端龍子生誕120年特別展, 大田区立龍子記念館, 2005年.
- 2005
- 川端龍子展: 生誕120年, 江戸東京博物館, 茨城県天心記念五浦美術館, 滋賀県立近代美術館, 2005–2006年.
- 2008
- 開館45周年記念特別展: 川端龍子と修善寺: 伊豆市所蔵、近代日本画の巨匠の姿とともに, 大田区立龍子記念館, 2008年.
- 2011
- 特別展 龍子の歩んだ四国遍路, 大田区立龍子記念館, 2011年.
- 2011
- 川端龍子と和歌山: 120年の絆, 和歌山市立博物館, 2011年.
- 2015
- 川端龍子生誕130年特別展: 画人生涯筆一管, 大田区立龍子記念館, 2015年.
- 2017
- 川端龍子: 超ド級の日本画: 特別展没後50年記念, 山種美術館, 2017年.
- 2017
- 龍子の生きざまを見よ!: 川端龍子没後五十年特別展, 大田区立龍子記念館, 2017年.
- 2020
- 川端龍子展: 生誕135年記念, 広島県立美術館, 水野美術館, 2020年.
- 2023
- 横山大観と川端龍子: 龍子記念館開館60周年特別展, 大田区立龍子記念館, 2023年.
- 足立美術館, 島根県安来市
- 大田区立龍子記念館, 東京
- 上浦歴史民俗資料館(村上三島記念館), 愛媛県今治市
- 髙島屋史料館
- 東京国立近代美術館
- 東京富士美術館
- パラミタミュージアム, 三重県菰野町
- 水野美術館, 長野
- 山種美術館, 東京
- 和歌山市立博物館
- 和歌山県立近代美術館
- 1924
- 川端龍子『画室の解放』東京: 中央美術社, 1924年 [自筆文献].
- 1930
- 『龍子号 巽』3巻1号 (1930年1月). 東京: 巽画会.
- 1942
- 木村重夫『川端龍子論』東京: 塔影社, 1942年.
- 1942
- 横川毅一郎『評伝川端龍子』東京: 造形芸術社, 1942年.
- 1951
- 川端龍子『わが画生活』東京: 大日本雄弁会講談社, 1951年 [自筆文献].
- 1953
- 藤本韶三編『青龍社とともに: 龍子画業二十五年』東京: 美術出版社, 1953年.
- 1962
- 川端紀美子『父の画室の隅で』東京: 新樹社, 1962年.
- 1963
- 横川毅一郎『画家龍子』東京: 三彩社, 1963年.
- 1964
- 北川桃雄『前田青邨・川端龍子 日本近代絵画全集: 第24巻』東京: 講談社, 1964年.
- 1966
- 「特集・追悼川端龍子」『三彩』202号 (1966年6月).
- 1972
- 川端龍子『画人生涯筆一管: 川端龍子自叙伝』東京: 東出版, 1972年 [自筆文献].
- 1976
- 佐々木直比古編『川端龍子 日本の名画: 16』東京: 中央公論社, 1976年.
- 1976
- 飯島勇『川端龍子と青龍社 近代の美術』34 (1976年5月).
- 1976
- 村瀬雅夫『川端龍子 現代日本の美術: 13』東京: 集英社, 1976年.
- 1979
- 河北倫明監修『川端龍子 巨匠の素描シリーズ: 1. 東京: 渓水社, 1979年.
- 1983
- 河北倫明監修『川合玉堂・川端龍子 現代の水墨画: 6』東京: 講談社, 1983年.
- 1984
- 飯島勇『川端龍子/堅山南風 現代日本絵巻全集: 13』東京: 小学館, 1984年.
- 1993
- Yiengpruksawan, Mimi Hall. Japanese War Paint: Kawabata Ryūshi and the Emptying of the Modern. Archives of Asian Art, Vol. 46 (1993): 76-90.
- 1997
- 朝日新聞社文化企画局名古屋企画部編『川端龍子展: 没後30年: 近代日本画壇の巨匠』東京: 朝日新聞社文化企画局名古屋企画部, 1997年 (会場: 名古屋松坂屋美術館, 日本橋高島屋, 京都高島屋).
- 2005
- 菊屋吉生「川端龍子と時局画連作: 「太平洋」, 「大陸策」, そして「国に寄する」, 「南方篇」連作について」『戦争・他者・芸術: 美意識における異文化理解の可能性 科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))研究成果報告書, 平成14-16年度』[出版地不明]: [菅村亨], 2005年, 120–137頁.
- 2005
- 『川端龍子展: 生誕120年』東京: 毎日新聞社, 2005年 (会場: 東京都江戸東京博物館, 茨城県天心記念五浦美術館, 滋賀県立近代美術館).
- 2009
- 長嶋圭哉「青龍社と「会場芸術」」『昭和期美術展覧会の研究』戦前篇, 東京文化財研究所企画情報部編, 東京: 中央公論美術出版, 2009年, 273-294頁.
- 2019
- 東京文化財研究所「川端龍子」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. (日本語)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9094.html
- 2019
- 吉田茂治編『龍子: 大田区立龍子記念館所蔵作品集』東京: 求龍堂, 2019年.
- 2020
- 神内有里, 福田浩子, 高田紫帆, アートワン編『川端龍子展: 生誕135年記念』[京都]: アートワン, 2020年 (会場: 広島県立美術館, 水野美術館).
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「川端龍子」『日本美術年鑑』昭和42年版(137-140頁)青竜社主宰川端竜子は、4月10日老衰のため東京都大田区の自宅で死去した。享年80才。本名昇太郎。明治18年和歌山県に生れ、東京府立第3中学中退後白馬会洋画研究所に入り、後太平洋画会研究所に移って洋画を学んだ。挿絵画家としてはやくその名を知られたが、大正2年渡米し帰国後无声会に加わった。以後日本画に転じ、大正4年同志と珊瑚会をおこし、また院展に奇抜な作品を発表して第3回院展「霊泉由来」で樗牛賞をうけ...
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川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。本名は川端 昇太郎。
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- 2024-02-09