- 作家名
- 甲斐庄楠音
- KAINOSHŌ Tadaoto (index name)
- Kainoshō Tadaoto (display name)
- 甲斐庄楠音 (Japanese display name)
- かいのしょう ただおと (transliterated hiragana)
- 甲斐荘楠音
- 甲斐莊楠音 (real name)
- 生年月日/結成年月日
- 1894-12-13
- 生地/結成地
- 京都府京都市上京区(現・京都府京都市中京区)
- 没年月日/解散年月日
- 1978-06-16
- 没地/解散地
- 京都府京都市北区
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
甲斐庄楠音の本名は甲斐莊楠音で、庄ではなくて莊である。今日この画家の姓に庄が用いられるのは、彼自身が1931(昭和6)年以降、画家としては甲斐庄楠音を名乗ることにしたからだが、その全盛期といえる1910年代から1920年代まで彼は本名で活動していた。1940(昭和15)年前後から彼の活躍の場となった映画界でも、本名が用いられることが多かった。要するにこの芸術家の芸業全体を捉えようとするなら、甲斐莊楠音という表記こそが相応しい。しかし本稿では慣行に従い、彼個人については甲斐庄という表記、彼の一族については甲斐荘(正確には「甲斐莊」)という表記を使用する。
甲斐庄楠音は1894(明治27)年12月13日、京都市上京区(現・中京区)に生まれた。御所の近所にあり、裕福な家だった。
甲斐荘家は楠木正成の末裔と説明されるが、この点も注記を要する。同家は徳川時代には4000石の旗本だったが、主な知行所は河内長野にあり、1868(慶応4)年、幕府が鳥羽・伏見の戦いに敗れたのを機に、上洛して朝廷に帰順した。しかし当主の正光は24歳で急逝し、前当主である養父の正博は、岩倉具視に仕えた山本鴻堂の仲介により、西本願寺に仕える下間家から16歳の源吾を正光の養子に迎えた。源吾は正秀と名乗って家を継いだが、やがて正博に実子が生まれた。正博とその子は楠へ姓を改め、正秀は離縁された。この正秀が楠音の父である。家が裕福だったのは、甲斐荘の家名を守ることを条件に多額の慰謝料を得たからである。正秀の実家の下間家は源頼政の末裔で、本願寺坊官を世襲した名門だっただけに、正秀も殿様のように振る舞ったが、長男の楠香(のちの高砂香料工業創業者)と三男の楠音はそれを反面教師のようにして、家柄を誇ることを慎んだ。
母の実家は御所の日常業務を分担した口向役人で、雛人形や羽子板を下賜されていた。幼少の楠音は御所ゆかりの品々を愛し、女児の着物を身につけ、他の兄弟とは違った育ち方をした。歌舞伎にも興味を抱き、南座へ観劇に行くこともあったが、その際には女形の役者の、男から色気ある女への見事な変貌に心惹かれた。絵画と映画の両分野にまたがる彼の芸術の淵源がここにある。
楠音は京都府立京都第一中学校に入学したが、病弱だったため進学校の授業に耐え切れず、1908(明治41)年、京都市立美術工芸学校図案科に編入。授業に出るよりも図書館で西洋の画集を読み、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に魅了された。1912(明治45)年、同校卒業と同時に京都市立絵画専門学校に進学し、1915(大正4)年、1学期間だけ留年して卒業したあとはさらに同校の研究科にも進み、級友たちと友情を育みながら絵画制作に励んだ。
楠音の日本画には歌舞伎に取材した作品が多いが、この時期の彼のスケッチブック群(京都国立近代美術館蔵)でも、芝居に関するスケッチが大部分を占める。また、ガラス乾板を中心とする彼の写真資料群(京都国立近代美術館蔵)にも、女形を演じた写真や、太夫や町娘に扮した写真が少なくない。彼の日本画に登場する女性たちと似た格好をして、似た仕草をした彼の写真もあり、日本画において役者たちを描いたことの背景には、自ら役者のように演じることや扮装することへの情熱や願望があったと見ることができる。彼の「美人画」は、いわば美人を演じる心の自画像でもあったろうか。
そうした楠音の芸術は、竹内栖鳳や菊池契月のような京都画壇の指導者たちの間で早くから、東京画壇に対抗できる京都画壇ならではの個性派として注目されていたが、中でも彼を高く評価したのが村上華岳であり、華岳が土田麦僊等とともに結成した国画創作協会の第1回展には、華岳に勧められて楠音も《横櫛》(1918年、広島県立美術館)を出品した。深い情念と妖艶な美の表現で観衆を魅了して岡本神草の《口紅》(1918年、京都市立芸術大学芸術資料館)と人気を二分し、絵葉書が飛ぶように売れるほど評判になった。以後も同会を活動の拠点とし、1924(大正13)年に会友、1926(大正15)年には会員となったが、1928(昭和3)年、麦僊は国画創作協会の解散を宣言した。直後、旧会員や旧会友の同志による新樹社が結成され、その事務所は楠音の自宅に置かれた。楠音は新樹社を作品発表の場として死守したいと考えていたに相違ないが、1931(昭和6)年、新樹社会員の大半を占めた麦僊門下生たちが一斉脱退し、同会は自然消滅した。その間、1923(大正12)年には華岳が京都を去り、画壇から距離を置くようになったことで楠音は一番の擁護者を失う格好となった。1926(大正15)年の第5回国画創作協会展では、楠音が出品した《女と風船》(1926年、焼失か)が麦僊によって「穢い絵は会場を穢くしますからね」(甲斐庄楠音「追想 国画創作協会の頃」『三彩』第346号、1976年6月、21頁)と批判され、展示を拒否される事件もあった。楠音は国画創作協会の若き注目株であり、新樹社の中心人物でもあったが、その活躍の時代は彼が美術界における居場所を徐々に失う過程でもあった。
そうした中で楠音も、一方では「穢い絵で、奇麗な絵に勝たねばならん」(同上、22頁)と決意しながら、他方では穢さを払拭しようとしたようでもあり、彼自身の変化を窺わせる作例として先述の《横櫛》が挙げられる。強烈な情念の物語をレオナルド・ダ・ヴィンチ風の柔らかな陰影で表現した名作だが、楠音自身による2度の加筆修正を経て当初の姿は失われ、「奇麗」になっている。これに対し、本来の筆致と陰影を伝えるのが、楠音没後に親族の家で発見された《横櫛》(1916年頃、京都国立近代美術館)であり、2点の《横櫛》に見られる表現の違いが、大正期から昭和期への楠音の変化を表している。
もともと画壇の陰湿な人間関係を嫌っていた楠音は、1940(昭和15)年前後、京都の太秦にある時代劇映画の撮影所で風俗考証、衣裳考証等を引き受け始めた。彼を映画界へ招いたのは映画監督の溝口健二だったと伝えられ、楠音と関係深い監督としても溝口と伊藤大輔が有名だが、実のところ映画界における楠音の仕事の全盛期は、溝口と別れたあとの1950年代である。伊藤や、東映の松田定次、佐々木康、松竹の大曾根辰夫、福田晴一等が手がけた総天然色オールスター映画において楠音は、市川右太衛門や高田浩吉、片岡千恵蔵、中村錦之助、大友柳太朗、大川橋蔵、北大路欣也のような大スターたちの豪華な衣裳を「考証」し、娯楽映画に芸術性を添え、芸術性によって娯楽性を高めた。
映画界における彼の活躍は1965(昭和40)年まで約25年間にも及んだが、テレビの普及によって映画産業が衰退しつつあったその時期、楠音は再び画家として注目を浴び始めた。契機は国画創作協会回顧展(京都市美術館、1963年)であり、「甲斐庄楠音回顧展」(日本橋三越、東京、1976年)終了後には大作《虹のかけ橋(七姸)》(1915–1976年)が京都国立近代美術館に購入された。楠音も画業への情熱を再燃させたが、1978(昭和53)年6月16日、京都市北区の友人宅で急逝。83歳だった。
(梶岡 秀一)(掲載日:2024-12-16)
- 1963
- 国画創作協会回顧展, 京都市美術館, 1963年.
- 1976
- 甲斐庄楠音回顧展, 東京・日本橋三越・美術画廊, 1976年.
- 1976
- 第2回美の発掘展 美人画の鬼才 甲斐庄楠音, 名古屋・千種図書館, 1976年.
- 1978
- 第5回美の発掘展 美人画の鬼才 甲斐庄楠音, 名古屋・千種図書館, 1978年.
- 1986
- 京都の日本画1910–1930: 大正のこころ・革新と創造, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1986–1987年.
- 1987
- 甲斐庄楠音展: 謎の出逢い・今甦る大正デカダンス, 西武アート・フォーラム, 1987年.
- 1990
- 新樹社の画家たち: 国画創作協会の残英, 笠岡市立竹喬美術館, 1990年.
- 1993
- 京の美人画展: 個性派の競艶 江戸・明治・大正, 京都文化博物館, 1993年.
- 1993
- 国画創作協会回顧展, 京都国立近代美術館, 東京国立近代美術館, 1993年.
- 1997
- 甲斐庄楠音展: 大正日本画の異才: いきづく情念, 京都国立近代美術館, 笠岡市立竹喬美術館, 1997年.
- 1999
- 甲斐庄楠音と大正期の画家たち, 千葉市美術館, 1999年.
- 2008
- 没後30年: その後の甲斐庄楠音〈素描・草稿〉展, 京都造形芸術大学芸術館Gallery Raku, 2008年.
- 2018
- 国画創作協会の全貌展: 創立100周年記念, 笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館, 2018–2019年.
- 2021
- あやしい絵展, 東京国立近代美術館, 大阪歴史博物館, 2021年.
- 2023
- 甲斐荘楠音の全貌: 絵画、演劇、映画を越境する個性, 京都国立近代美術館, 東京ステーションギャラリー, 2023年.
- 京都国立近代美術館
- 京都市美術館 (京都市京セラ美術館)
- 名古屋市美術館
- 広島県立美術館
- 東京都現代美術館
- 徳島県立近代美術館
- 笠岡市立竹喬美術館, 岡山県
- 新潟市美術館
- メトロポリタン美術館, ニューヨーク
- ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館, シドニー
- 1927
- 豊田豊「新興美人画作家論: 京都画壇に於ける耽美主義」『美之國』第3巻第7号 (1927年7月): 54-62頁.
- 1928
- 甲斐荘楠音「美人画家として浮世絵を見る」『美之國』第4巻第7号 (1928年7月): 51-53頁.
- 1929
- 豊田豊「甲斐荘楠音の藝術: 新樹社を観て」『美之國』第5巻第7号 (1929年7月): 56-59頁.
- 1941
- 豊田豊「甲斐荘楠音・土橋醇一両氏展」『塔影』第17巻第7号 (1941年7月): 66頁.
- 1969
- 甲斐荘楠音, 臼井喜之介「顔見世月の対談」『月刊京都』225号 (1969年12月): 69-78頁.
- 1976
- 田中日佐夫「甲斐庄楠音回顧展に関連して 近代美術史の発掘: 1」『三彩』第346号 (1976年6月): 17-20頁.
- 1976
- 甲斐庄楠音「追想 国画創作協会の頃」『三彩』第346号 (1976年6月): 20-22頁.
- 1987
- 栗田勇『女人讃歌: 甲斐庄楠音の生涯』東京: 新潮社, 1987年.
- 1990
- 北川久「「横櫛」制作の背景: 大正四年卒業制作説存疑」『視る: 京都国立近代美術館ニュース』271号 (1990年1月): 6-8頁.
- 1993
- 北川久「岡本神草と甲斐荘楠音の登場」『三彩』第544号 (1993年1月): 31-33頁.
- 1995
- 山口昌男「「穢い絵」の問題: 大正日本の周縁化された画家たち」『「敗者」の精神史』東京: 岩波書店, 1995年, 449-476頁.
- 1996
- 原田平作, 島田康寛, 上薗四郎『国画創作協会の全貌』京都: 光村推古書院, 1996年.
- 1997
- 西岡義信「映画の考証と甲斐庄楠音」『別冊太陽: 日本のこころ』第97号 (1997年4月): 98頁.
- 2009
- 島田康寛監修『甲斐庄楠音画集: ロマンチック・エロチスト』東京: 求龍堂, 2009年.
- 2018
- 太田梨紗子「甲斐庄楠音《横櫛》についての一考察」『美術史論集』第18号 (2018年2月): 161-176頁. 神戸: 神戸大学美術史研究会.
- 2020
- 百年史編纂委員会編『高砂香料工業百年史』東京: 高砂香料工業, 2020年.
- 2020
- 小川佐和子「絵師と映画監督: 時代考証にみる甲斐庄楠音と溝口健二の通底性」谷川建司編『映画産業史の転換点: 経営・継承・メディア戦略』東京: 森話社, 2020年, 190-214頁.
- 2022
- 山口記弘「日本映画界における「甲斐荘楠音」の功績」『立命館映像学』第15号 (2022年3月): 7-53頁.
- 2022
- 藤田奈比古「戦後の『旗本退屈男』におけるバロック性について」『Phantastopia』第1号 (2022年3月): 136-155頁. 東京: 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース.
- 2022
- 梶岡秀一「甲斐荘楠音の全貌: 絵画・演劇・映画を越境する個性」『美術の窓』第471号 (2022年12月): 62-67頁.
- 2023
- 池田祐子, 梶岡秀一, 若山満大, 山口記弘, 石川肇, 太田梨紗子『甲斐荘楠音の全貌 : 絵画, 演劇, 映画を越境する個性』東京: 日本経済新聞社, 2023年 (会場: 京都国立近代美術館, 東京ステーションギャラリー) [展覧会カタログ].
Wikipedia
甲斐荘(庄) 楠音(かいのしょう ただおと、1894年〈明治27年〉12月13日 - 1978年〈昭和53年〉6月16日)は、大正時代の日本画家、昭和20年代 - 30年代の風俗考証家である。本姓は「甲斐荘」。兄に高砂香料工業創業者である甲斐庄楠香がいる。
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- 2025-03-14