- 作家名
- 岡本太郎
- OKAMOTO Tarō (index name)
- Okamoto Tarō (display name)
- 岡本太郎 (Japanese display name)
- おかもと たろう (transliterated hiragana)
- 生年月日/結成年月日
- 1911-02-26
- 生地/結成地
- 神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)
- 没年月日/解散年月日
- 1996-01-07
- 没地/解散地
- 東京都新宿区信濃町
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
- 彫刻
- 写真
- 建築
- 書
作家解説
1911年に神奈川県川崎市に、漫画家・画家・文筆家である岡本一平、小説家・詩人である岡本かの子のもとに長男として生まれ、芸術活動が至上とされる家庭で幼少期を過ごす。慶應義塾幼稚舎普通部を経て、1929年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学した。
1929年、父の朝日新聞特派員としてのロンドン軍縮会議取材に同行して一家で渡欧し、岡本はフランスに留まり、1930年代パリでの芸術家・思想家との直接的交流が始まる。これが日本で1950年代以降に芸術家としての卓越した個性を発揮する素地となった。実感的に知見を掴むためにフランス人と同様に、フランス語と現地での社会生活の流儀を身に付けるためパリ郊外のリセ(中等教育機関)で寄宿生として学び始める。1932年には、パリ大学でヘーゲル美学の講義を聴講、さらにパブロ・ピカソ《水差しと果物鉢》(1931年、ソロモン・R. グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)を見て既存の様式を乗り越える表現に強い感銘を受け、制作活動を本格化、サロン・デ・シュランデパンダン展に出品を開始した。1933年、ジャン・アルプやワシリー・カンディンスキーらがメンバーの、抽象表現を追究するアプストラクシオン・クレアシオン協会に22歳で参加し、制作・私生活での交流が行われた(1936年退会)。
1936年のサロン・デ・シュランデパンダン展展出品の初期の代表作《痛ましき腕》(現存せず、1949年の再制作が川崎市岡本太郎美術館所蔵)は、抽象性と精神性の中に具象的なモチーフを溶け込ませた。本作はアンドレ・ブルトンに認められ、1938年の国際シュルレアリスム展(ギャルリー・ボザール、パリ)に出品、1937年に初めての画集『OKAMOTO』(G.L.M.社)を刊行した。さらにパリ大学のマルセル・モースのもとで人間存在の根本に迫る民族学に傾倒し、これは戦後日本で展開することになる伝統の現代的価値の再検討につながる。1938年、ジョルジュ・バタイユの推薦で秘密結社アセファル(無頭人)に参加、フランスへの戦火の拡大により1940年6月に帰国するまでに、岡本は国際的に活躍する知識人や芸術家が展開する文化運動に参加する希有な体験を有することになった。
1942年1月に応召し現役の初年兵として中国戦線に出征、1946年6月に復員するまでに、パリの芸術文化を中心とした自由の生活から、戦中の軍隊生活における不条理の連続体験への急転換と東京のアトリエにあった戦前の作品を空襲ですべて焼失する経験をする。このことで前衛芸術家の世界に対する対決の方法に立脚し、行き詰まりのなかにこそ可能性を見出す信条が生まれ、芸術と生活を一致させることを試みるようになった。
戦後の活動を開始として、岡本は抽象の合理性とシュルレアリスムの非合理性という相対する系統を矛盾のままに対決させる「対極主義」を提唱・実践した。しかしながら、その主張はすぐには認められず、1950年には第2回日本アンデパンダン展(東京都美術館)で対極主義美術協会の結成を呼びかけるも賛同は得られなかった。それでも国際的動向と切り離されてしまった、権威主義的な美術界への対立を主軸に活動を続けた。1948年、花田清輝らと夜の会を結成し、参加した埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らと共に前衛芸術運動を開始。同年、アヴァンギャルド芸術研究会を花田と結成。1953年には、東京・青山に完成したアトリエ(現・岡本太郎記念館)に現代芸術研究所を創設。美術・デザイン・建築・文学・演劇・映画などの多様な領域の専門家との協同や、芸術家志望の若者の啓蒙を目指し、1940年代から1950年代にかけて多数の芸術運動のオーガナイザーとして存在感を示した。
その成果は、1956年に丹下健三設計の東京都庁舎への《日の壁》(現存せず、原画は岡本太郎記念館、東京)ほかの陶板レリーフの設置、1964年に同じく丹下設計の国立代々木競技場第一体育館への陶板レリーフ制作などに現れ、多領域の活動と専門家との協同は1970年《太陽の塔》(1970年、万博記念公園、大阪)にもつながる。同時に、1956年の国際アートクラブ(岡本が日本本部代表)企画による「世界・今日の美術」展(日本橋髙島屋、東京)で多数のアンフォルメルの作家を紹介、1953年にはピカソとの邂逅に基づく著作『青春ピカソ』(新潮社)を刊行するなど、海外の近現代美術動向の紹介者としても活躍した。
1947年に会員に推挙された二科会では、対極主義の実践として、1949年の第34回二科展に《重工業》(川崎市岡本太郎美術館)を、1950年の第35回二科展には《森の掟》(川崎市岡本太郎美術館)を発表するなど、相対する性質の事物が矛盾のままに併置された作品を発表した。また、1955年の第40回二科展では、岡本が声をかけた若手作家を集めた第9室が「太郎部屋」と呼称された。しかし団体内部での活動に限界を感じ1961年に二科会を退会した。その後の1960年代の作品は、《予感》(1963年、川崎市岡本太郎美術館)のような、書を思わせる不定形かつ呪術的な印象の黒い描線と原色の組み合せが特徴となった。
その発想の源泉は日本の伝統研究である。注目されてこなかった縄文土器の美的価値を発見した衝撃を1952年に「四次元との対話 縄文土器論」として『みづゑ』2月号に掲載、縄文・東北・沖縄の造形の系譜に、仏教・中央集権的・貴族的な美術の潮流や、わび・さびの美学には当てはまらないダイナミズムを見出し、伝統の多様性を主張した。その成果は自ら撮影した写真作品と、『日本の伝統』(光文社、1956年)、『日本再発見 — 芸術風土記』(新潮社、1958年)や『忘れられた日本 — 沖縄文化論』(中央公論社、1961年)などの著作によって展開した。それは前衛芸術家として既存の日本の伝統を徹底的に批判して、現在の生活を創造的にする「新しい伝統」の発見で、日本で西欧に基盤を持つ前衛芸術の自由を展開する意義であった。また、1954年に中学2年生にも理解できる生活の中の芸術論として『今日の芸術』(光文社)を刊行し、ベストセラーとなった。逆説的な「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という挑発的な言葉で、芸術家の視点や精神性や所作を導入して、一般社会の人々すべてが生活をいかに創造的にすることができるかを説き、岡本はこれ以降、大衆の内側からの芸術による啓蒙者を担うことになる。
1952年、日本橋髙島屋地下通路(東京)にモザイクタイル壁画《創生》を制作、芸術の大衆化として注力したパブリックアートの系譜が始まった。やがて往来に屹立する《若い時計台》(1966年、数寄屋橋公園、東京)のような立体作品の制作も増え、その到達点が《太陽の塔》である。1967年に日本万国博覧会テーマ館プロデューサーを委嘱され、テーマ「進歩と調和」をアイロニーとして捉え、反モダニズム・反伝統主義を込め、あらゆる矛盾に引き裂かれた現代人が、芸術の仮面によって、人間が科学で作り出した人工の太陽、即ち核の恐怖を克服し、分析・細分化されていない太古の太陽を今日に甦らせることを意図、約60分のテーマ館内外での体験で前提の知識を持たない一般の人々にも衝撃を与えるパビリオンを作り上げた。同時期の《明日の神話》(1969年)や、1955年の第3回日本国際美術展(東京都美術館)に出品の第五福竜丸事件に取材した《燃える人》(東京国立近代美術館)など、岡本が現代社会が芸術で乗り越えるべき課題の象徴とした原水爆をモチーフとした作品は多い。
万博以降、達成されない社会の変革に対して、岡本は作品や著作での発信に加え、1953年に始めたテレビ出演において、特に1980年代以降、芸術家としての自分自身のメディアへの露出を強化していく。これは戦後日本社会における「芸術家」イメージ形成に寄与した。晩年も日本各地のモニュメントを手掛けたが、パーキンソン病を患い、1996年1月7日に急性呼吸不全により84歳で死去した。
岡本については没後も時代や人々の要請に応えるように「岡本太郎ブーム」と呼ぶべき多様な動向が見られ、著作の復刊、行方不明であった《明日の神話》のメキシコでの発見と2008年の渋谷駅連絡通路への設置や、《太陽の塔》の改修による内部再公開が実施された。これらの再評価には、秘書・養女であった岡本敏子(2005年急逝)が開設した岡本太郎記念館(1998年開館、東京)や岡本太郎記念現代芸術大賞、岡本から多数の作品寄贈を受けて顕彰を継続してきた川崎市岡本太郎美術館(1999年開館)が牽引したところが大きい。
(春原 史寛)(掲載日:2023-09-26)
- 1941
- 岡本太郎滞欧作品展, 銀座・三越, 1941年.
- 1954
- 第27回ヴェネツィア・ビエンナーレ, ヴェネツィア, 1954年.
- 1964
- 岡本太郎展, 池袋・西武百貨店, 銀座・東京画廊, 1964年.
- 1968
- 太郎爆発: 岡本太郎 生命・空間のドラマ, 銀座松屋, 1968年.
- 1980
- 挑む 岡本太郎展: 芸術は爆発だ, 小田急グランドギャラリー, 1980年.
- 1995
- 岡本太郎展, 大阪髙島屋, 広島市現代美術館, 1995–1996年.
- 1999
- 多面体・岡本太郎: 哄笑するダイナミズム, 川崎市岡本太郎美術館, 1999–2000年.
- 2000
- 太陽の塔からのメッセージ: 岡本太郎とEXPO'70, 国立国際美術館, 芸術の森美術館, 川崎市岡本太郎美術館, 新津市美術館, 2000–2001年.
- 2007
- 世田谷時代1946–1954の岡本太郎: 戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流, 世田谷美術館, 2007年.
- 2007
- 青山時代の岡本太郎1954–1970: 現代芸術研究所から太陽の塔まで, 川崎市岡本太郎美術館, 2007年.
- 2007
- 岡本太郎「藝術風土記」 : 岡本太郎が見た50年前の日本, 川崎市岡本太郎美術館, 2007–2008年.
- 2009
- 岡本太郎の絵画, 川崎市岡本太郎美術館, 2009年.
- 2011
- 岡本太郎展: 生誕100年, 東京国立近代美術館, 2011年.
- 2011
- 岡本太郎と沖縄: ここが世界の中心だ , 沖縄県立博物館・美術館, 2011年.
- 2011
- 生誕100年: 人間・岡本太郎展, 川崎市岡本太郎美術館, 2011年.
- 2017
- 岡本太郎×建築: 衝突と協同のダイナミズム, 川崎市岡本太郎美術館, 2017年.
- 2018
- 岡本太郎の写真: 採集と思考のはざまに, 川崎市岡本太郎美術館, 2018年.
- 2018
- 街の中の岡本太郎: パブリックアートの世界, 川崎市岡本太郎美術館, 2018年.
- 2021
- 戦後デザイン運動の原点: デザインコミッティーの人々とその軌跡, 川崎市岡本太郎美術館, 香川県立ミュージアム, 2021–2022年.
- 2022
- 展覧会 岡本太郎, 大阪中之島美術館, 東京都美術館, 愛知県美術館, 2022–2023年.
- 川崎市岡本太郎美術館
- 岡本太郎記念館, 東京
- 東京国立近代美術館
- 富山県美術館
- 府中市美術館
- 板橋区立美術館
- 姫路市立美術館, 兵庫県
- 山梨県立美術館
- グッゲンハイム美術館, ニューヨーク
- 1948
- 岡本太郎『岡本太郎画文集 アヴァンギャルド』東京: 月曜書房, 1948年 [自筆文献].
- 1950
- 岡本太郎『アヴァンギャルド芸術』東京: 美術出版社, 1950年 [自筆文献].
- 1970
- 岡本太郎, 泉靖一『日本列島文化論』東京: 大光社, 1970年. (復刻増補: 『日本人は爆発しなければならない: 日本列島文化論』 東京: ミュゼ, 2000年) [自筆文献].
- 1979
- 岡本太郎『岡本太郎著作集』全9巻, 東京: 講談社, 1979–1980年 [自筆文献].
- 1979
- 『岡本太郎』東京: 平凡社, 1979年.
- 1996
- 岡本太郎『沖縄文化論: 忘れられた日本 中公文庫』東京: 中央公論社, 1996年 [自筆文献].
- 2005
- 岡本太郎『日本の伝統 知恵の森文庫』東京: 光文社, 2005年 [自筆文献].
- 2007
- 杉山悦子, 野田尚稔, 矢野進, 佐藤玲子, 杉田真珠編『世田谷時代1946-1954の岡本太郎: 戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流』第1巻,第2巻. [東京]: 世田谷美術館, 2007年 (会場: 世田谷美術館) [展覧会カタログ].
- 2007
- 佐藤玲子, 杉田真珠, 杉山悦子, 野田尚稔, 矢野進編『青山時代の岡本太郎1954-1970: 現代芸術研究所から太陽の塔まで』川崎: 川崎市岡本太郎美術館, 2007年 (会場: 川崎市岡本太郎美術館) [展覧会カタログ].
- 2011
- 椹木野衣監修『岡本太郎爆発大全』東京: 河出書房新社, 2011年.
- 2011
- 岡本太郎『岡本太郎の宇宙 ちくま学芸文庫』全6冊, 山下裕二, 椹木野衣, 平野暁臣編. 東京: 筑摩書房, 2011年 [自筆文献].
- 2013
- 佐々木秀憲『もっと知りたい岡本太郎: 生涯と作品 アート・ビギナーズ・コレクション』東京: 東京美術, 2013年.
- 2015
- 岡本太郎『日本再発見: 芸術風土記 角川文庫』東京: Kadokawa, 2015年 [自筆文献].
- 2015
- 岡本太郎『神秘日本 角川文庫』東京: Kadokawa, 2015年 [自筆文献].
- 2015
- 平野暁臣編著『岡本芸術: 岡本太郎の仕事1911–1996→』東京: 小学館クリエイティブ, 2015年.
- 2015
- 大杉浩司『岡本太郎にであう旅 岡本太郎のパブリックアート』東京: 小学館クリエイティブ, 2015年.
- 2016
- 岡本太郎『美の世界旅行 新潮文庫』東京: 新潮社, 2016年 [自筆文献].
- 2017
- 岡本太郎『自分の中に毒を持て: あなたは常識人間を捨てられるか 青春文庫』東京: 青春出版社, 新装版2017年 [自筆文献].
- 2018
- 平野暁臣編著『岡本太郎と太陽の塔』東京: 小学館クリエイティブ, 増補新版2018年.
- 2019
- 東京文化財研究所「岡本太郎」日本美術年鑑所載物故者記事. 更新日2019-06-06. https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10673.html
- 2020
- 岡本太郎『岡本太郎の眼 角川文庫』東京: Kadokawa, 2020年 [自筆文献].
- 2021
- 平野暁臣編著『入門! 岡本太郎』東京: 興陽館, 2021年.
- 2022
- 岡本太郎『今日の芸術: 時代を創造するものは誰か 光文社文庫』東京: 光文社, 新装版2022年 [自筆文献].
日本美術年鑑 / Year Book of Japanese Art
「岡本太郎」『日本美術年鑑』平成9年版(343頁)1970年に日本で開催された万国博覧会のシンボル太陽の塔で知られた美術家岡本太郎は1月7日午後3時32分急性呼吸不全のため東京都新宿区の慶応義塾大学病院で死去した。享年84。明治44(1911)年2月26日、神奈川県川崎市に生まれる。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・小説家の岡本かの子。大正6(1917)年青山の青南小学校に入学するが教師に反感を持ち1学期でやめ、日本橋の日新学校に入るが、翌年慶応幼...
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岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
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- 2023-09-26