A1145

海野勝珉

| 1844-06-30(弘化元年5月15日) | 1915-10-06

UNNO Shōmin

| 1844-06-30(弘化元年5月15日) | 1915-10-06

作家名
  • 海野勝珉
  • UNNO Shōmin (index name)
  • Unno Shōmin (display name)
  • 海野勝珉 (Japanese display name)
  • うんの しょうみん (transliterated hiragana)
  • 海野竹次郎 (birth name)
  • 芳洲 (art name)
  • 藻税軒 (art name)
  • 貞月庵 (art name)
  • 旭東 (art name)
  • 東華斎 (art name)
生年月日/結成年月日
1844-06-30(弘化元年5月15日)
生地/結成地
常陸国水戸(現・茨城県水戸市)
没年月日/解散年月日
1915-10-06
没地/解散地
東京府(現・東京都)
性別
男性
活動領域
  • 工芸

作家解説

海野勝珉は1844年6月30日(弘化元年5月15日)、金工家の初代海野美盛(1785–1862)の弟・海野傳右衛門の子として常陸国水戸(現在の茨城県水戸市)に生まれた。幼名は竹次郎。芳洲、藻税軒、貞月庵、旭東、東華斎とも号した。9歳の頃より伯父である初代海野美盛に金工を学び、幕末期の水戸派(高彫の技術)の萩谷勝平(1804–1866)に師事する。また、絵画を安達梅渓、書を武庄次郎に学んだ。1867(慶応3)年に独立開業、水戸では、刀装具を製作していた。1868(明治元)年に上京。実兄である青龍軒眞田義政(静國)の駒込千駄木宅に寄寓し、彫金業を営む。この頃、勝珉と改名。東京では、花瓶、香炉、置物、煙草入金具、巻煙草入、香箱、緒締、指輪などを製作していた。1873(明治6)年、雁金守親に花鳥類彫刻を学び、家具装飾や携帯品に応用する技術を身につけた。 海野が活躍した明治時代、工芸界の新たなパトロンとなったのは国家だった。金工界においても同様で、かつての幕府や大名に代わり国や皇室、宮内省が彼らの仕事を支えた。多くの彫金家が廃刀令後の厳しい世を乗り切ろうとしていた中、後に海野の師となった加納夏雄は、幕末~明治の激動の世をくぐり抜けた人物である。発足したばかりの明治政府の依頼を受け造幣寮で貨幣雛形の製作を行い、彫金家が新たな時代でも十分に政府に寄与できることを自ら体現した。海野もこのような時代の追い風を受け、博覧会や共進会に出品・受賞し、明治10年後半頃から皇室や宮内省の仕事を受けながら、彫金界の第一人者としての歩みを進めることとなる。 1877(明治10)年、第一回内国勧業博覧会に《神代人物金製袋物前錠》(所在不明)を出品、褒状を受賞。つづく第二回内国勧業博覧会に出品した《稲穂に雀の図扁額》(所在不明)も褒状を受賞し、彫金界で頭角を現していった。1888(明治21)年には東京彫工会にて昭憲皇太后の宝冠章の正章の「邊縁」の桜花の彫刻を担当した。 海野は、片切彫りを得意としながらも、象嵌など多彩な金属を使った華やかな彫金に特色があり、色彩感と立体性を重視した作品を生み出していった。それは、第三回内国勧業博覧会で顕著にみられる。 1890(明治23)年の第三回内国勧業博覧会に出品された《蘭陵王置物》(1890年、皇居三の丸尚蔵館、東京、重要文化財)は当時の審査員をも驚かせるほどの技術をもって制作され、海野の出世作となった。色彩の鮮やかさと高肉象嵌による文様の立体感が強調されたつくりの本作は、鋳造、鍛造、彫金、象嵌の技術を駆使した人物像で、複数のパーツを組み上げて制作している。外観からは判断できないほどの精巧な接合で仕上げられている点も高く評価され妙技一等賞を受賞した。 すでに世間からも実力を認められた頃ともいえる1890年、東京美術学校(現・東京藝術大学)雇員となり加納夏雄の門下に入った。この弟子入りは、町田久成の仲立てによる。この頃は、鍔、小道具、額、置物、花瓶などの金工品を肉彫、象嵌、片切彫で制作するかたわら、東京美術学校においては加納夏雄の下彫師として協力していた。1894(明治27)年には、師の加納夏雄とともに《岩上鶺鴒置物》(1894年、皇居三の丸尚蔵館)を制作、明治天皇大婚二十五年奉祝品として東京革商組合より献上した。この時には、先の作品のほか天賞堂の江澤金五郎プロデュースによる《色紙貼交屏風》(1894年、皇居三の丸尚蔵館)も手がけた。これは、海野をはじめ、加納夏雄など名だたる金工家が彫金をほどこした銀製色紙を屏風に貼り交ぜてつくった大作で、内務省高等官および判任官一同より献上された。 1899(明治32)年には、1900(明治33)年の第5回パリ万国博覧会に出品するために、宮内省からの依頼を受け《太平楽置物》(1899年、皇居三の丸尚蔵館)を制作。舞楽「太平楽」の舞人をかたどった置物で、金・銀・銅・四分一などの金属を用い、顔立ちから意匠の細部にいたるまで写実的に表現された大作であった。顔は鋳造、装束の多くの部分が鍛造でつくられているのは《蘭陵王置物》と同じであるが、より推し進められた写実表現には日本に新たに移入された西洋風彫塑の影響がみられる。 後半期の海野は、《浪に鷲図花瓶》(1909年、皇居三の丸尚蔵館)にみられるような銀花瓶を多く制作する。その背景には、海外の日本美術工芸への熱狂が冷め輸出向けの彫金作品が少なくなったという時代変化がある。海野をはじめとした彫金家たちは、皇室への献上品や日本美術協会主催の美術展覧会への出品など国内重視の制作へ大きく転換し、それは次第に形状や意匠が定型化することへとつながった。 1915(大正4)年に亡くなるまで、海野は堅実な伝統手法を基本とし多くの作品を残していった。1896(明治29)年、帝室技芸員に任命され、名実ともに明治後期の彫金界における第一人者となった。内国勧業博覧会審査官をつとめ、龍池会、日本美術協会、日本金工協会をはじめとした研究団体では指導者的役割を果たし、明治維新後の金工界が変わる中で、後進の養成にあたった。1894(明治27)年に東京美術学校彫金科教授に就任、門下からは水野月洲ら多くの彫金家を輩出した。1903(明治36)年には藍綬褒章が授与された。1915(大正4)年10月6日、東京にて死去。72歳であった。 (宮川典子)(掲載日:2024-11-14)

1992
工芸家たちの明治維新, 大阪市立博物館, 1992年.
1995
明治美術協会と日本金工協会の時代, 宮内庁三の丸尚蔵館, 1995年.
2006
明治の彫金: 海野勝珉とその周辺, 宮内庁三の丸尚蔵館, 2006年.
2010
幕末・明治の超絶技巧: 世界を驚嘆させた金属工芸; 清水三年坂美術館コレクションを中心に, 泉屋博古館分館, 佐野美術館, 大阪歴史博物館, 岡山県立博物館, 2010–2011年.
2018
明治の御慶事: 皇室の近代事始めとその歩み, 宮内庁三の丸尚蔵館, 2018年.

  • 皇居三の丸尚蔵館, 東京
  • 国立工芸館, 石川県金沢市
  • 清水三年坂美術館, 京都
  • 東京国立博物館
  • 東京藝術大学大学美術館

1915
「東京美術学校教授海野勝珉特旨叙位ノ件」1915年10月7日. 国立公文書館. https://www.digital.archives.go.jp/item/3087659.html
1975
長谷川栄編『夏雄と勝珉 日本の美術: 第111号』東京: 至文堂, 1975年.
1992
大阪市立博物館編『工芸家たちの明治維新 展覧会目録: 第116号』大阪: 大阪市立博物館, 1992年 (会場: 大阪市立博物館).
2006
宮内庁三の丸尚蔵館編『明治の彫金: 海野勝珉とその周辺 三の丸尚蔵館展覧会図録: no. 41』[東京]: 宮内庁, 2006年 (会場: 宮内庁三の丸尚蔵館).
2007
横溝廣子編著『海野勝珉下絵・資料集: 東京藝術大学大学美術館所蔵』大阪: 東方出版, 2007年.
2010
佐野美術館編『幕末・明治の超絶技巧: 世界を驚嘆させた金属工芸: 清水三年坂美術館コレクションを中心に』三島: 佐野美術館, 2010年 (会場: 泉屋博古館分館, 佐野美術館, 大阪歴史博物館, 岡山県立博物館). [展覧会カタログ].
2018
宮内庁書陵部, 宮内庁三の丸尚蔵館編『明治の御慶事: 皇室の近代事始めとその歩み 三の丸尚蔵館展覧会図録: No. 80』[東京]: 宮内庁, 2018年 (会場: 宮内庁三の丸尚蔵館). [展覧会カタログ].

Wikipedia

海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) - 大正4年(1915年)10月6日)とは、彫金家である。幼名・竹次郎。別号は東華斎、芳州。

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  • 2025-03-14