- 作家名
- 今村紫紅
- IMAMURA Shikō (index name)
- Imamura Shikō (display name)
- 今村紫紅 (Japanese display name)
- いまむら しこう (transliterated hiragana)
- 今村寿三郎 (real name)
- いまむら じゅさぶろう
- 今村龍介 (art name)
- 生年月日/結成年月日
- 1880-12-16
- 生地/結成地
- 神奈川県横浜市
- 没年月日/解散年月日
- 1916-02-28
- 性別
- 男性
- 活動領域
- 絵画
作家解説
1880年、神奈川県横浜市に生まれる。本名は寿三郎。兄・保之助[やすのすけ]は菊池容斎の弟子・中島享斎[きょうさい]に師事し興宗[こうそう]と号した日本画家。1894年、横浜市立尋常高等横浜小学校を卒業後、外国人居留地近くで輸出向けの提灯問屋を商う家業を手伝いながら、山田馬介[ばすけ]に水彩画を学び、龍介の号を受ける。1897年2月、師が亡くなったためその兄弟子にあたる松本楓湖[ふうこ]に入門するために上京する兄と行動を共にする。画塾において良質で豊富な粉本の模写に励む一方、兄から写生について厳しい指導を受け、翌年「千紫万紅[せんしばんこう]」の語より自ら雅号をつけた紫紅は、早速その年の日本美術協会秋季展で初入選を果たす。1899年からは師に従い、岡倉天心が前年に創設した日本美術院と日本絵画協会が共催する新派系の絵画共進会へ出品、受賞を重ねる。また1900年、偶然雅号と同じ名を称する、安田靫彦[ゆきひこ]、磯田長秋[ちょうしゅう]など若手の小堀鞆音[ともと]門下生が結成していた研究会(紫紅会)を見つけ、絵画共進会への出品作に注目しあっていた靫彦と意気投合。楓湖門の若手も合流して紅児会と改称し、1902年からは展覧会を開催、明治30年代後半日本美術院衰退後は、楓湖門安雅堂[あんがどう]画塾の互評会から発展した巽[たつみ]画会の展覧会とともにその主な発表の場とした。歴史画題による作品が主に発表されていた両展へ、初期は歴史上の出来事をその情景とともに写生風に描いたものを、やがて《平親王[たいらしんのう]》(1907年、横浜美術館)や《伊達政宗》(1910年、横浜美術館)のように、歴史上の偉人を、我々と同じように当時を生きていた一人の人物として描いたものを、出品するようになる。
1907年、五浦[いづら](茨城)の日本美術院研究所に有望な若手として靫彦とともに招待された紫紅は、自身の文部省美術展覧会(文展)出品作制作には失敗するも、菱田春草が朦朧体を脱すべく点描を用いた新しい技法によって《賢首菩薩[けんしゅぼさつ]》(東京国立近代美術館)を制作する様子を目にすることが出来た。その経験は1910年、第10回巽画会に出品された《説法》(原題〈達磨〉、東京国立博物館)や翌年の第5回文展に出品された《護花鈴[ごかれい]》(1911年、霊友会妙一記念館、東京)に活かされ、穂先を切った筆を用いた点描の間から裏箔の光が漏れ、清新で気品ある画面を作り出すことに成功。後者は褒章を受け、これを高く評価した横浜の実業家・原三溪[さんけい]より生活費の援助を受けることとなり、小田原に居を構えた。また、月に一度名品揃いの三溪コレクションを目の前にして研究をする機会も与えられ、制作環境が一気に充実したことから、1912年、第6回文展で新ジャンルに挑戦する。それが、古来描きつくされてきた画題から、敢えて地名の後についていた光景を説明する言葉をのぞき、実際の写生に基づいた風景画とした《近江八景》(1912年、東京国立博物館、重要文化財)である。明快な色彩と淡墨による点描や油絵のタッチのような塗り重ねと、下から積み上げたモティーフによって埋め尽くされる縦長の紙本八幅は、従来の鑑賞者や画家を戸惑わせる一方で、新しい意識を持つ鑑賞者や若手画家からは強い共感を得た。1900年代に入ると欧州から戻った美術研究者や洋画家達、美術雑誌により最新の西洋美術思潮がもたらされ、日本画家の間でも印象派、後期印象派の作品に影響を受ける作家が現われはじめており、文展で二等賞第三席を受賞したことは彼らを大いに鼓舞することとなった。
1913年10月、肝臓病の再発により東京の病院に入院した紫紅は、この年8月に紅児会を解散させたこともあって心機一転、盟友靫彦と離れて制作すべく、そのまま刺激の多い東京へ居を移す。しかしそれだけでは飽き足らず、日本とは全く違う環境、風景を求めて1914年2月26日、インドに向けて神戸港を出港する。途中香港、シンガポール、ペナン、ラングーンに寄港、3月20日、カルカッタに入港してガヤ、ブッダガヤなどインドに15日間滞在し、満州、中国各地を廻り、朝鮮にしばらく滞在した後5月28日に帰国する。この成果は早速、同年再興されるにあたり発起人および経営同人として参加した日本美術院の第1回展覧会に《熱国之巻》(1914年、東京国立博物館、重要文化財)として発表された。鮮やかな木々の緑、水の青、灼ける大地の黄や朱、照りつける陽光の金砂子と、プリミティブな造形による熱帯の光景を長大な画面に展開した本作品は、紫紅の好んだ琳派の画巻にヒントを得たとは言え、《近江八景》同様これまでの日本画の範疇に収まりきらない問題作として賛否相半ばした。
つねづね、「日本画なんて恁麼[こんな]に固まつてしまつたんでは仕方がありやアしない。兎に角破壊するんだナ。出来上つてしまつたものは、どうしても一度打ち砕さなくちや駄目だ。そすと誰れかゞ又建設するだらう。僕は壊すから、君達建設してくれ給へ。」(神崎憲一「不取敢[とりあえず]の記」『塔影』第11巻第5号、1935年5月、40頁)という意味のことを後輩画家に語っていたという紫紅は、《近江八景》、《熱国之巻》で日本画を破壊し、若い画家のために自由な研究所を設けたいという希望を叶える手始めに赤曜会[せきようかい]を組織する。紫紅の元に集った速水御舟、小茂田青樹[おもだせいじゅ]、牛田雞村[けいそん]ら安雅堂画塾の後輩画家たちに写生と古今東西の芸術作品の研究を課し、展覧会を開いて作品を販売して生活の糧を得させ、再興日本美術院展覧会(再興院展)の審査では他の審査員に彼等の作品を入選させる意義を説いて回るなど、その引き上げに尽力した。紫紅自身は第2回の再興院展に岩絵具をふんだんに使用した印象派風の《入る日・出る月》(1915年、関東大震災で焼失)を出品しつつ、インド行の帰途に立ち寄った中国に取材した《春暖[しゅんだん]》(1914年、山種美術館、東京)や赤曜会の第1回展(東京・上大崎)に出品した伊豆の風景《南風[なんぷう]》(1915年、個人蔵)、下村観山、大観、小杉未醒[みせい]とともに東海道五十三次を旅行した折の写生をもととした《潮見坂[しおみざか]》(1915年、横浜美術館)といった、死後に「新南画」の先駆的作品と言われることになる穏やかな色調の作品を発表。当時南画は、描法にとらわれ、筆墨の戯れに堕した古臭いものとして排斥されていたが、1909年、髙島屋での展覧会で感銘を受けた富岡鉄斎や、三溪コレクションの中にあった池大雅、龔賢[きょうけん]などによる、本来の生き生きとした南画に、西欧の表現主義に先んじた新しさを見て取ったことから、何の躊躇もなく自作に取り入れていき、青邨によれば「最近の研究として特に南画を色彩で行くと云ふ企てがあつた。」(前田青邨「南画を色彩で行く企があつた」『絵画清談』第4巻第3号、1916年3月、16頁)ということであった。その後《蓬莱郷》(1915年、川越市立美術館)、《桃源》(1916年、個人蔵)、《春さき》(1916年、東京国立近代美術館)と、特定の風景によらない理想郷としての胸中山水も発表。しかし、1916年2月2日、目黒に念願の画室が完成したその日に脳溢血の発作を起こし、小康状態になるも28日再び発作を起こして35歳の若さで永眠する。
その画業は、「彼は製作をする毎に一つ宛[ずつ]墓を築き乍ら新らしい方へ、新らしい方へと進んで行つた。」(春山武松「今村紫紅論」『美術画報』第39編巻8、1916年、12頁)という評言に代表されるように、「流派」「型」「因習」はもちろん、一旦得た「自由」や「新しさ」にさえも囚われることを嫌い、周囲の批評を意に介さず、自己の芸術を追求する姿勢を貫いたものであった。紫紅の残した、近代の日本画の持つ多くの可能性を示した作品は、後に目黒派と呼ばれる再興院展の後輩画家たちや、土田麦僊[ばくせん]、小野竹喬[ちっきょう]などの京都画壇の若手画家たちの表舞台への登場を促す役割も果たした。
(小倉 実子)(掲載日:2023-09-26)
- 1916
- 故同人今村紫紅遺作並びに追悼展, 日本橋倶楽部, 1916年.
- 1965
- 今村紫紅展, 有隣堂本店, 1965年.
- 1984
- 今村紫紅: その人と芸術: 特別展, 山種美術館, 1984年.
- 1986
- 日本画の前衛たち: 今村紫紅・速水御舟・松岡映丘・鏑木清方…, 東京都美術館, 1986年.
- 1992
- 古典への回帰: 近代日本画への招待, 山種美術館, 1992年.
- 1993
- 大正日本画の若き俊英たち: 今村紫紅と赤曜会, 東京都庭園美術館, 1993年.
- 1994
- 日本美術院 大正の熱き風: 百年史刊行記念展4, 日本橋・高島屋, 横浜・高島屋, なんば・高島屋, 1994年.
- 1995
- 「紫紅と靫彦」展, 横浜美術館, 1995年.
- 1998
- インドに魅せられた日本画家たち: 天心とタゴールの出会いから: 開館1周年記念展, 茨城県天心記念美術館, 1998年.
- 2003
- 院展作家の一系譜三溪園に集った画家たち: 財団設立五〇周年記念特別展, 三溪記念館, 2003年.
- 2004
- 大正日本画の新風: 目黒赤曜会の作家たち, 青梅市立美術館, 2004年.
- 2009
- 大正期、再興院展の輝き: 大観・観山・靫彦・古径・御舟: 日本画創造の苦悩と歓喜, 滋賀県立近代美術館, 栃木県立美術館, 2009年.
- 2013
- 横山大観展: 良き師、良き友, 横浜美術館, 2013年.
- 2013
- 今村紫紅展: 横浜のいろ: 財団設立60周年記念特別展, 三溪記念館, 2013年.
- 2015
- 速水御舟とその周辺: 大正期日本画の俊英たち, 世田谷美術館, 2015年.
- 東京国立博物館
- 東京国立近代美術館
- 横浜美術館
- 山種美術館, 東京
- 霊友会妙一記念館
- 1911
- 今村紫紅「思ひの草々」『多都美』第5巻第17号 (1911年12月): 4頁 [自筆文献].
- 1914
- 今村紫紅「暢気に描け」『多都美』第8巻第3号 (1914年2月): 3頁 [自筆文献].
- 1915
- 今村紫紅「色彩の話」『新日本画分科講話』東京: 日本美術学院, 1915年, 1-12頁 [自筆文献].
- 1916
- 安田靫彦「逝ける今村紫紅君」『中央美術』第2巻第4号 (1916年4月): 85-92頁.
- 1916
- 速水御舟「今村紫紅氏の思ひ出」『中央美術』第2巻第4号 (1916年4月): 93-96頁.
- 1916
- 森口多里「今村紫紅の芸術」『早稲田文学』第126号 (1916年5月): 107-109頁.
- 1916
- 日本美術院編『紫紅画集』東京: 西東書房, 1916年.
- 1916
- 藤懸静也「今村紫紅」『美術画報』第39編巻8 (1916年7月): 115-122頁.
- 1916
- 春山武松「今村紫紅論」『美術画報』第39編巻8 (1916年7月): 124-128頁.
- 1918
- 南米岳, 橋本関雪, 石井天風, 森口多里, 河東碧梧桐, 水嶋爾保布, 戸張孤雁, 小杉未醒, 坂崎担, 平福百穂, 紀星峰, 藤井浩祐, 大澤貞吉, 古川修「紫紅の芸術」『たつみ』第12巻第3号 (1918年3月): 5-6頁.
- 1918
- 関如来「紫紅君遺愛の逸品」『たつみ』第12巻第3号 (1918年3月): 5頁.
- 1949
- 河北倫明「今村紫紅」『三彩』第31号 (1949年6月): 10-20頁.
- 1949
- 安田靫彦「今村紫紅のこと」『三彩』第31号 (1949年6月): 21-23頁.
- 1949
- 吉田幸三郎「今村さんの思ひ出」『三彩』第31号 (1949年6月): 36-38頁.
- 1949
- 牛田鷄村「紅児会の頃」『三彩』第31号 (1949年6月): 40-43頁.
- 1949
- 富取風堂「紫紅さんと赤曜会」『三彩』第31号 (1949年6月): 44-46頁.
- 1951
- 河北倫明「紅児会略史」『美術研究』第160号 (1951年3月): 1-18頁. 東京: 吉川弘文館.
- 1955
- 小高根太郎「美術院を飾った今村紫紅」『萠春』第3巻第8号 (1955年9月): 4-7頁.
- 1958
- 牛田雞村「紫紅さんの話」『萠春』第53号 (1958年3月): 12-15頁.
- 1964
- 吉沢忠「今村紫紅・伝統継承と絶えざる摸索 近代画家論: 4」『三彩』第175号 (1964年7月): 28-29頁.
- 1964
- 中島清之「「熱国の巻」の技法」『三彩』第175号 (1964年7月): 30-37頁.
- 1976
- 竹田道太郎編『今村紫紅とその周辺 近代の美術』37 (1976年11月).
- 1993
- 中村溪男『今村紫紅: 近代日本画の鬼才 有隣新書』横浜: 有隣堂, 1993年.
- 1994
- 草薙奈津子「今村紫紅: 再び二次元世界へ」日本美術院百年史編纂室編『日本美術院百年史』第4巻. 東京: 日本美術院, 1994年, 407-416頁.
- 1999
- 榮樂徹「紫紅のインド行」『言擧げ』美術 博物, 枚方: 榮樂徹, 1999年, 148-151頁.
- 2002
- 佐藤道信「今村紫紅 熱国之巻 (熱国之朝・熱国之夕)」『國華』第1277号 (2002年3月): 27-32頁.
- 2005
- 三上美和「今村紫紅筆「護花鈴」試論: 成立過程と文化史的背景をめぐって」『美術史』第159冊 (2005年10月): 175-189頁.
- 2006
- 森充代「今村紫紅《宇津の山路》考」『静岡県博物館協会研究紀要』No. 21 (2006年3月): 39-51頁.
Wikipedia
今村 紫紅(いまむら しこう、 1880年(明治13年)12月16日 - 1916年(大正5年)2月28日)は、神奈川県横浜市出身の日本画家。本名は寿三郎。35歳(数え年で37歳)で夭折したが、大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた。主要作品『近江八景』連作 (1912年、東京国立博物館、重文))、『熱国の巻』 (1914年、東京国立博物館、重文)など。
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- 2023-11-10