A1007

青木繁

| 1882-07-13 | 1911-03-25

AOKI Shigeru

| 1882-07-13 | 1911-03-25

作家名
  • 青木繁
  • AOKI Shigeru (index name)
  • Aoki Shigeru (display name)
  • 青木繁 (Japanese display name)
  • あおき しげる (transliterated hiragana)
生年月日/結成年月日
1882-07-13
生地/結成地
福岡県久留米市
没年月日/解散年月日
1911-03-25
没地/解散地
福岡県福岡市
性別
男性
活動領域
  • 絵画

作家解説

1882(明治15)年、現在の福岡県久留米市に生まれる。県立久留米尋常中学明善[めいぜん]校(現・福岡県立明善高等学校)に入る13歳の頃から、久留米在住の画家・森三美[みよし](1872–1913)について洋画を習い始める。森の画塾では、鉛筆デッサンに始まり、イギリス製の習画帳などを使った模写、写生などが行われており、高等小学校の同級生で後に洋画家となる坂本繁二郎(1882–1969)もいた。絵を描く一方、中学校では、梅野満雄[みつお](1879–1953)たち友人と文芸回覧雑誌をつくる文学青年でもあった。その頃、青木は将来について「我は如何にして我たり得べきか」と深く悩み、「われは丹青[たんせい](引用者註:絵画)の技によつて、歴山帝(引用者註:アレクサンドロス大王)若くはより以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだ」(「自伝草稿」『假象の創造 — 青木繁全文集 —』中央公論美術出版、1966年)と決意したという。 1899年、中学を退学した青木は、画家を志して上京する。画塾不同舎に入門し、翌1900年9月、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学した。この頃、美術学校そばの帝国図書館(現・国立国会図書館国際子ども図書館)に通って『古事記』や『日本書紀』をはじめ諸国の神話や宗教についての知識を養い、また、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)で伎楽面や舞楽面などの造形に触れて古典の習得に励む。1903年9月、青木は東京美術学校在学中に《黄泉比良坂[よもつひらさか]》(東京藝術大学)、《闍威弥尼[じゃいみに]》(石橋財団アーティゾン美術館、東京)など日本やインドの神話画稿類14点を出品し、第8回白馬会展で白馬賞を受賞、画壇デビューを果たした。 神話を題材にした動機について、青木は正宗得三郎[まさむねとくさぶろう](1883–1962)に「始めて筆とパレツトを持つと共に誰れでも画が出来なくつてはならんものがある」(「追想記(その四)」『青木繁画集』政教社、1913年)と語ったという。初めて筆とパレットを持つと同時に、描かなければならないものがある。画家として立つための課題、それが青木にとって神話であったということなのであろう。フランスでアカデミックな絵画教育を受けた黒田清輝(1866–1924)が主導する東京美術学校で、青木は西洋由来の美術技法や思想について学んだ。明治期に生きた青木が新国家体制に資する絵画を制作するため、天平文化に範を求める「古典」を意識し、歴史や神話といった絵画主題を扱ったことは当然のことであったともいえる。 1904年夏、同郷の詩人・高島宇朗[うろう](1878–1954)の影響もあり、千葉県安房郡富崎村[あわぐんとみさきむら](現・館山市)の布良[めら]へ、坂本、森田恒友[つねとも](1881–1933)、福田たね(1885–1968)と写生旅行へ出かけた。あるとき坂本は大漁の陸揚げを目撃し、その光景について青木に伝えたところ、青木が想像力をかきたてられ制作にかかったのが《海の幸》(1904年、石橋財団アーティゾン美術館、重要文化財)である。写生地として知られていた布良について、青木は万葉集に詠まれた場所として認識していた。描かれた10人の裸体の男たちが巨大なサメを抱えて進む姿に、古代への想いを重ねていたのかもしれない。制作にあたり、画材調達やモデルの世話で友人3人を大いに振り回したが、その甲斐あって同作品は第9回白馬会展で注目を集めた。感動した詩人・蒲原有明[かんばらありあけ](1876–1952)は、詩「海の幸」を文芸誌『明星[みょうじょう]』辰年第11号(1904年11月1日号)に発表した。さらに、蒲原の詩集『春鳥集』(本郷書院、1905年)発行の際には、挿絵を青木が手がけ、その表紙カバーを青木と坂本が共同でデザインした。いずれも美術と文学が交歓し合う明治浪漫主義的風潮のなかで生み出されたものである。 1907年3月、青木は東京府主催の勧業博覧会に挑む。青木自身によれば、魚や海藻、人体の海中での見え方など海での探究を重ね、綿津見[わたつみ]の宮の物語を題材とした《わだつみのいろこの宮》(1907年、石橋財団アーティゾン美術館、重要文化財)を描いたという。1905年に恋人・福田たねとの間に幸彦[さちひこ]が生まれたこともあり、画家として成るためにもこの博覧会への意気込みは大きいものであったが、同作品は前評判の高さと本人の期待に反して三等賞の末席に終わる。このときの審査には白馬会と太平洋画会の派閥争いも絡んでおり、席次に不満を抱いた青木は、雑誌『方寸』第1巻第5号(1907年10月23日号)に不公正な審査への批判を投稿した。 1907年8月、父危篤の知らせを受け久留米へ戻った青木を待ち受けていたのは、父亡きあと、残された母と姉妹や弟、5人を扶養する家長としての義務であった。福田家に残してきた息子を引きとる見込みもなく、経済的難問を抱えながら美術学校時代の同級生や恩師を訪ね、熊本や佐賀など九州各地を放浪する。地元の名士や軍人の肖像画を手がけ、青木なりにその人脈を頼って画家としての活動を継続しようとしていたことは知られている。その足跡として挙げられるのが、現在の福岡県大川市にある酒造会社清力[せいりき]商店から、事務所である洋館の大広間に飾る絵を依頼され、そこに滞在して大作《漁夫晩帰[ぎょふばんき]》(1908年、ウッドワン美術館、広島)を制作したことである。文部省美術展覧会(文展)へも応募し中央画壇への復帰を図ろうと《秋声》(1908年、福岡市美術館)を制作したが、応募期日に間に合わなかったと伝えられ、青木の願いは叶うことなく終わった。1909年頃より、佐賀に住む恩師・森の家に出入りして、展覧会に出品したり、画会を催したりするなど、現地での活動が明らかにされている。青木は、1911年3月25日、福岡市内の病院で肺結核のため28歳の若さで永眠した。 青木の1周忌にあたる1912年3月、坂本や友人たちの尽力により「青木繁君遺作展覧会」(竹之台陳列館、東京・上野)が開催され、翌年には『青木繁画集』(1913年)が発行された。さらに、1939(昭和14)年11月と翌年3月には銀座と大阪で「青木繁遺作展覧会」(青樹社[せいじゅしゃ])が開かれ、中学以来の友人で、ことあるごとに青木の経済的窮地を救ってきた梅野の所蔵品が展観される。梅野は青木美術館の設立を目指して作品を収集していたが、作品を安全に保存していく必要性を感じ、また、その芸術を広く一般に知らせるために作品を手放すことを決意し、《海の幸》、《わだつみのいろこの宮》は、現在の株式会社ブリヂストンの創業者・石橋正二郎(1889–1976)に譲られた。正二郎は、高等小学校時代の師・坂本の、夭折した青木の作品が散逸するのを惜しみ、作品を集めて美術館を建てて欲しいという願いを聞き、すでに青木作品の収集を進めていた。1948年、死後の骨灰を郷里のけしけし山(兜山[かぶとやま])の松樹の根元に埋めて欲しいという青木の遺言に応えるべく、記念碑が建立され、その表面に、青木の歌「わが国は 筑紫のくにや 白日別[しらひわけ] 母います国 櫨[はじ(ぜ)]多き国」(「村雨集」『青木繁画集』1913年)を坂本が揮毫したひらがな文字の図案が刻まれた。その碑は、現在も青木の生まれ育った筑後平野を見渡せる山上にひっそりと佇む。 (伊藤 絵里子)(掲載日:2023-09-26)

1912
青木繁君遺作展覧会, 東京上野 竹の台陳列館, 1912年.
1939
青木繁遺作展覧会, 青樹社画廊, 1939年.
1953
青木繁小品展, 中央公論社画廊, 1953年.
1956
青木繁・坂本繁二郎作品展覧会, 石橋美術館, 1956年.
1961
青木繁展: その知られざる画業: 没後50年記念, 博多大丸, 小倉玉屋, 東京・三越, 1961年.
1968
青木繁を偲ぶ: 特別展, 有馬記念館, 1968年.
1972
青木繁展: 生誕90年記念ブリヂストン美術館開館20周年記念, ブリヂストン美術館, 石橋美術館 1972年.
1973
第12回名作展: 青木繁・中村彝, 岡山県総合文化センター, 1973年.
1974
青木繁・福田たねのロマン展, 栃木県立美術館, 1974年.
1980
青木繁未発表作品と資料: 青木繁の息吹き, 石橋美術館, ブリヂストン美術館, 1980年.
1983
青木繁=明治浪漫主義とイギリス, 石橋美術館, 栃木県立美術館, ブリヂストン美術館, ひろしま美術館, 1983年.
1990
青木繁小品展: 1882–1911, 大川美術館, 1990年.
2003
青木繁と近代日本のロマンティシズム, 東京国立近代美術館, 石橋財団石橋美術館, 2003年.
2004
高取伊好と青木繁: 多久市制施行五十周年記: 平成十六年度企画展, 多久市郷土資料館, 2004年.
2005
名作ものがたり: 青木繁「海の幸」の100年, 石橋美術館, 2005年.
2005
青木繁: 《海の幸》100年: 特集展示, ブリヂストン美術館, 2005年.
2008
福田たね 青木繁のロマン: 芳賀町総合情報館開館記念展, 芳賀町総合情報館, 2008年.
2010
青木繁と清流祇園川: 朝日を描いて100年, 小城市立中林梧竹記念館, 2010年.
2011
青木繁展: 没後100年: よみがえる神話と芸術, 石橋美術館, 京都国立近代美術館, ブリヂストン美術館, 2011年.
2022
ふたつの旅: 青木繁×坂本繁二郎: 生誕140年, アーティゾン美術館, 久留米市美術館, 2022年–2023年.

  • 石橋財団アーティゾン美術館, 東京
  • 大原美術館, 岡山県倉敷市
  • 東京藝術大学大学美術館
  • 河村美術館, 佐賀県唐津市
  • 岡崎市美術博物館, 愛知県
  • 東御市梅野記念絵画館, 長野県
  • 府中市美術館, 東京
  • 栃木県立美術館
  • ウッドワン美術館, 広島県廿日市
  • 東京国立近代美術館

1913
小谷保太郎編『青木繁画集』東京: 政教社, 1913年.
1954
ブリヂストン美術館編『青木繁 美術家シリーズ: 第1集』東京: 美術出版社, 1954年.
1964
河北倫明『青木繁: 悲劇の生涯と藝術 角川新書』東京: 角川書店, 1964年 (河北倫明『青木繁 生涯と藝術』養徳社, 1948年4月 に河北倫明「『じゅうげもん』の世界: 青木繁と坂本繁二郎」『秀作美術』17 号 (1963年1月)を加筆).
1966
青木繁『假象の創造』東京: 中央公論美術出版, 1966. 増補版『假象の創造: 青木繁全文集』東京: 中央公論美術出版, 2003年 (『仮象の創造: 青木繁全文集』に『青木繁画集』所収の坂本繁二郎「追想記」ほかを加筆) [自筆文献].
1972
河北倫明『青木繁』東京: 日本経済新聞社, 1972年.
1973
中村義一「青木繁の芸術についての覚書 明治美術におけるイギリス19世紀美術思潮, 特にプレラフェライティズムの移入と影響について: 7」『宮崎大学教育学部紀要: 芸能』33号 (1973年3月): 1-17頁 (加筆修正再録: 「青木繁とプレラファエライト絵画」『近代日本美術の側面: 明治洋画とイギリス美術』東京: 造形社, 1976年, 190-219頁).
1973
中村義一「青木芸術の完成と未完成」『美学』24巻1号 (1973年6月): 16-29頁 (加筆修正再録: 「青木繁の芸術の完成と未完成」『近代日本美術の側面: 明治洋画とイギリス美術』東京: 造形社, 1976年, 220-242頁).
1976
中村義一『近代日本美術の側面: 明治洋画とイギリス美術』東京: 造形社, 1976年.
1979
松永伍一『青木繁: その愛と放浪 NHKブックス』山口睦夫, 河井邦彦写真. 東京: 日本放送出版協会, 1979年.
1981
松本清張「青木繁と坂本繁二郎: ライバルものがたり」1-9『芸術新潮』32巻1号 (1981年1月): 81-86頁; 32巻2号 (1981年2月): 81-86頁; 32巻3号 (1981年3月): 81-86頁; 32巻4号 (1981年4月): 84-89頁; 32巻5号 (1981年5月): 74-79頁; 32巻6号 (1981年6月): 81-86頁; 32巻7号 (1981年7月): 70-75頁; 32巻8号 (1981年8月): 75-80頁; 32巻9号 (1981年9月): 88-93頁. (再録: 松本清張『青木繁と坂本繁二郎: 私論』東京: 新潮社, 1982年).
1986
竹藤寛『青木繁・坂本繁二郎とその友』福岡: 福岡ユネスコ協会, 1986年 (新版: 東京: 平凡社, 1991年).
1993
隠岐由紀子「青木繁における西洋図像の受容について」『武蔵野美術大学研究紀要』23号 (1993年3月): 21-30頁.
1993
髙阪一治「青木繁の『狂女』考: A.ベックリーンとの関連より見たひとつの試み」『鳥取大学教養部紀要』27巻 (1993年11月): 63-82頁.
1995
谷口治達『青木繁・坂本繁二郎 ふくおか人物誌: 4』ふくおか人物誌編集委員会編. 福岡: 西日本新聞社, 1995年.
1995
竹藤寛『青木繁と坂本繁二郎: 「能面」は語る 丸善ブックス: 022』東京: 丸善, 1995年.
1998
中島美千代『青木繁と画の中の女』東京: TBSブリタニカ, 1998年.
2001
市川政憲研究代表『明治・大正期における「ロマンティシズム」の検証: 青木繁から関根正二まで 科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書, 平成10-12年度』[東京]: [市川政憲], 2001年 (市川政憲「青木繁と明治の浪漫主義絵画の環境」古田亮「青木繁の仮面スケッチ」蔵屋美香, 沓沢耕介編 「梅野満雄『ラハエル前派画家としての, ダンテ, ガブリエル, ロセッチ』」水谷長志, 松本透, 古田亮, 蔵屋美香編「関連年表」).
2003
渡辺洋『悲劇の洋画家 青木繁伝 小学館文庫』東京: 小学館, 2003年.
2005
東京文化財研究所, 石橋財団石橋美術館編『青木繁《海の幸》: 美術研究作品資料: 第3冊』東京: 中央公論美術出版, 2005年.
2005
植野健造『日本近代洋画の成立: 白馬会』東京: 中央公論美術出版, 2005年.
2007
長田謙一「再考・青木繁「海の幸」(一九〇四): ゼツェッシオン/日露戦争』長田謙一編『戦争と表象/美術: 20世紀以後――記録集 国際シンポジウム』国分寺: 美学出版, 2007年, 17-37頁.
2010
中野久美子『文学の視座からの青木繁における美的仮象の創造: 明治期のロマン主義受容の射程 Doctoral Dissertation Series; Initial #2』大阪: 松本工房, 2010年.
2014
中野久美子「青木繁の短歌: 「うたかた集」にみる絵画と短歌の交感」『待兼山論叢. 文学篇』48号 (2014年12月): 39-55頁.
2015
髙橋沙希『青木繁: 世紀末美術との邂逅 求龍堂美術選書』東京: 求龍堂, 2015年.
2022
伊藤絵里子, 森山秀子, 原口花恵, 原小百合企画編集『ふたつの旅: 青木繁×坂本繁二郎: 生誕140年』[東京], [久留米]: 石橋財団アーティゾン美術館, 久留米市美術館, 2022年 (会場: アーティゾン美術館, 久留米市美術館) [展覧会カタログ].

Wikipedia

青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。号は香葩。明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家であり、代表作『海の幸』はその記念碑的作品と評されている。若くして日本美術史上に残る作品を次々と生み出したが、名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世した。その生涯については虚実取り混ぜたエピソードが多く、半ば伝説化している。短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』を含め、未完成の作品が多い。

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VIAF ID
72576868
ULAN ID
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AOW ID
_42150145
Benezit ID
B00006159
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T003385
NDL ID
00002284
Wikidata ID
Q347298
  • 2023-09-26