- Artist
荻原碌山
- Title
- 小児の首
- Year
- 1909
- Medium
- ブロンズ
- Dims/Durs
- 高さ21.5巾18
- Collection
- 諏訪市美術館Suwa city museum of Art
- Provenance
- 昭和32伊藤忠雄氏寄贈
- Notes
- 荻原碌山《小児の首》について 荻原碌山は1879年、南安曇郡東穂高村(現安曇野市穂高)に生まれました。画家を志し上京したのち、1901年にアメリカへ渡ります。7年間のアメリカ、フランスでの滞在中、パリで出会ったオーギュスト・ロダン《考える人》を見て深く感動し、彫刻家志望へと転向します。1908年に帰国した碌山は、ロダンを日本へ紹介するとともに作家の個性と生命感にあふれた作品を発表し、後進に大きな影響を与えました。1910年に30歳で夭折しますが、日本の近代彫刻の新たな時代の基礎を築いた彫刻家です。 諏訪市美術館では開館した翌年1957(昭和32)年4月25日から5月5日にかけて「荻原碌山全作品展」が開催されています。信州を代表する彫刻家・荻原碌山の展覧会とあり、開催に携わっていた運営委員は準備に奔走しました。また、展覧会を開くだけでなく、まだ収蔵作品が少なかった美術館へ碌山の作品を収蔵することを希望し、鋳造家・伊藤忠雄へ作品のブロンズ鋳造を依頼します。この時に依頼を受けた伊藤との協議により、作品は《小児の首》と決まりました。鋳造された作品は、展覧会終了後の6月9日に美術館へ収蔵されました。 伊藤はこの依頼をきっかけに諏訪市美術館の運営委員も務め、《小児の首》の他に、中原悌二朗《石井先生の首》、エマニュエル・フレミエ《ネズミを喰う猫》を寄贈しています。 彫刻作品は様々な素材によって制作されますが、碌山のように塑像を制作する場合、まず粘土を用いて像を作ります。粘土は長期間形を保つことができないため、石膏や樹脂を使って型取りし、そこでできた雌型に石膏などを流し込み原型を作ります。その原型からブロンズなどの金属に鋳造されるのが一般的な方法です。 このような鋳造の過程の特徴により、ブロンズ彫刻は複数製造することが可能になります。更には石膏原型の複製制作や、出来上がったブロンズ像からの複製制作も可能になります。通常美術作品は、作家の管理のもと鋳造が行われ、作品としての質や作家性が保たれています。乱雑な複製の制作は、作家の権利の侵害や作品の質の低下を招くため、防がなくてはなりません。そのため、原型は作家や、遺族や美術館など所有者によって管理し、鋳造についての取り決めをすることでオリジナルの作品性を保護しているケースが多く見受けられます。 荻原碌山の作品は全て、作者が亡くなったのちにブロンズ鋳造されたものです。碌山の作品は、資料と共に碌山美術館(安曇野市穂高)が所有しており、1958(昭和33)年の開館後は鋳造における管理も行っています。 碌山美術館に常設展示されている《小児の首》には、よく見ると首の後ろに【碌山館】という印があります。これは、管理のもと鋳造が行われたブロンズ作品であることを示すために、鋳込む過程で刻まれたもので、諏訪市美術館のものにはありません。 諏訪市美術館の《小児の首》に印がない理由として、この鋳造が当時碌山の作品を管理していた碌山研究委員会に依頼するのではなく、諏訪市美術館と鋳造家との取り決めによってなされたことが挙げられます。背景として当時は鋳造作品の作家性やオリジナルについての認知、著作権の意識が社会的に発生していなかったことがあります。美術作品鋳造を請け負う鋳造所では、鋳造を依頼したものの原型の置き場がない作家の原型を預かったり、そうして預かった原型から許諾なく鋳造したりすることもごく普通に行われていたといいます。このような時代において、諏訪でも荻原碌山の作品を紹介したい、美術館の収蔵作品を充実させたいという諏訪市美術館の思いと、鋳造家の好意の結果が、こちらの《小児の首》であるといえるでしょう。彫刻作品の鋳造制作をめぐる問題はとても複雑です。この《小児の首》は、正式に荻原碌山の作品として認められるものではないでしょう。しかし、諏訪市美術館の活動の歴史を語る上で重要であることは間違いなく、収蔵から長い時間を経た現在も人々に愛され、大切にされている資料として公開しています。
- “Suwa-shi Bijutsukan shozōhin mokuroku, 1986.” Suwa: Suwa-shi Bijutsukan, 1986, cat. no. 358.
- 2024-01-11